カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 愛への集中

    2018年8月26日
    レビ記19:1~18、マルコ12:28~34
    関 伸子牧師

     毎年11月になると、私たちは『日々の聖句』の次の年の注文を取り、教会としてまとめて購入して、日々、聖書の短い言葉が記されている手帳を、できるだけ皆さんにお勧めしています。ドイツに今もこつこつと、み言葉による生活を作っている人びとに少しでも真似て、私たちもここに、主のみ守りによって生きる集団を造っていきたいという祈りを抱いています。

     そのような思いを抱いているところで、マルコによる福音書を順序に従って読んできて、この第12章の28節以下のみ言葉を聴くのです。

     この主イエスが教えてくださっているみ言葉は、神を愛することと、また自分自身を愛するように隣人を愛するという、愛に集中する戒めです。この主の戒めは、私たちが改めてくじを引いて、今日、私たちに与えられている戒めは何ですか、と尋ねる必要もない戒めであり、私たちの全生涯を支配すべきみ言葉です。

     場所はエルサレムの神殿です。次々と主イエスと律法学者やファリサイ派、サドカイ派の人びととの間に論争が続けられた。それをおそらく初めから興味深く耳をそばだてて聞いていた律法学者がいたのでしょう。サドカイ派と復活についての論争があった。そして主イエスが「神は生きている者の神である」と明言なさった、その言葉を聴いて、心動くままに進み出たのかもしれません。28節に、「一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた」と書いてある。この「立派に」と訳されている言葉は、元々の意味は「美しい」というのです。第14章3節以下に記されている主イエスが食事をしておられた時に、自分の持っている値高い香油を主イエスに注ぎ切った女の話は、福音書が記している、私たちが最もよく知っている物語のひとつです。そこで主イエスがその女にしたことを、「この女はわたしによいことをしてくれた」とおっしゃいましたけれども、そこで「よいこと」と訳されているのも、ここと同じ「美しい」という言葉が用いられている。それと同じように、主イエスのお答えも、美しく、もうひとつ言い換えると、「見事」と言えます。主イエスが見事に答えておられる。それで感心したのでしょう。

     主イエスがふたつのおきてについてお語りになった言葉を受けて、32節に、「先生、おっしゃる通りです」と訳されている言葉が出てきます。ここにも実は、この「立派な」という言葉が出て来るのです。「先生、お見事!」と言ってもいいのです。

     しかも、「あなたは、神の国から遠くない」という主の言葉を読むと、子どものようにならなければ神の国に入れないとおっしゃった、あの主の言葉を思い起こさないわけにはいきません。

     「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、……」以下の言葉は、申命記に出て来る言葉ですけれども、それを主イエスがここで引用なさった時には、「思いを尽くし」という言葉を敢えて加えています。

     この律法学者が尋ねたのは、あらゆるおきての中で何が第一かということでした。主イエスは、「自分自身を愛するように、隣人を愛しなさい」(18節)と言ったのです。これは、この1節以下に記されているすべての戒めの、まさに要約です。

     そこでは、隣人を愛するとはどういうことなのだろうか。たとえば、9節、10節を読むと、穀物畑を持っている者、ぶどう畑をもっている者が、収穫の時に落穂が落ちたら、これも皆自分の畑のものだと言って丁寧に搔き集めるようなことをするなと教えられる。ぶどう畑に至っては、わざと摘み尽くさないようにする。残して置くのです。自分の食べ物を得ることができない人びとが、そこに入り込んで来てぶどうを摘み、あるいは落穂を拾うことを許す。その人たちのためにきちんと残してあげる。これは驚くべきことであって、しかも今日、まだ私たちが実践していないことです。日本の国が豊かになっていると言いますけれども、私たちの国の繁栄の仕方は、このように自分たちの実りを他の人びとにも、どうぞと、分け与えるようなことよりも、自分たちの収穫は全部自分たちのさいわいのためにと集め、用い尽くす原理に貫かれているところがあるのではないでしょうか。

     あるいはまた、14節に、「耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない」とあります。小金井の町を歩いて、障碍者がどこでも自由に歩けるような町にはなっていません。

     レビ記はレビ記なりのおきてを語ります。そのおきての特質を表して、レビ記が語っている律法は「聖潔律法」であると言います。レビ記第19章の2節の言葉、「イスラエルの人々の共同体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」。

     神は聖い。なぜか。まことの神はただひとり、そのただひとりの神が神であられるところに聖さが現れる。そして私たち人間の聖さは、その神に造っていただいた人間として、その神に似合う、それに見合う存在としての聖さを生きることにある。そこに私たちの聖さが生まれる。神の聖さを映すのです。ちょうど主イエスが山上の説教で、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者になりなさい」と言われた通りです。

     神はそのひとり子イエスご自身を、私たちに与えるほどの集中的な愛をもってこの世を愛してくださいました。それは、私たちがひとりも滅びないですむためだと聖書は語る。滅びないで、聖なる者として堂々と生きるのです。主イエスは、そこに実に見事な人生が生まれると約束してくださっているのです。私たち一人ひとり、そこに生かされていることを、私たちは皆神の国から遠くないことを、主イエスが約束してくださっていることを、信じたいと願います。