カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 献げて生きる

    2018年9月2日
    詩編86:1~17、マルコ12:38~44
    関 伸子牧師

     マルコによる福音書第12章41節以下に、レプトン2枚の献げものをしたやもめの物語が記されています。このやもめの物語は、マルコによる福音書が書かれた頃、当時の教会で、絶えず語られ、語り伝えた言葉です。最初の教会の人びとも、礼拝をし、献金をするたびに、主イエスのお褒めになったようなやもめの献金を真似ているだろうかと自らに問う。そのようにしてやもめの話を伝えてくれたのです。

     その礼拝において、私たちは主イエスを仰ぎ見て、その主イエスが私たちを見ていてくださることを改めて知るのです。

     「見る」と訳し得る言葉は、福音書が書かれたギリシア語の中にもいろいろあります。たとえばこの後に続く第13章の1節に、「先生、御覧ください」という言葉や、「これらの大きな建物を見ているのか」という文章にある、「見る」を意味する言葉は、皆違う言葉です。この41節では「群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた」と訳されている、この「見ておられた」という言葉は、特別な意味を持っている言葉です。たとえば、ある学者が、自然現象をじっと観察をします。そして、この自然現象にはこういう法則があるという理論を建てます。理論のことを英語でセオリーと言います。この言葉の語源となったギリシア語が、ここで「見る」と訳されている言葉です。理論というのはただ頭の中で考え出すものではなくて、事柄をじっと観察したところから生まれて来るものです。あるいはまた、芝居を観客が観る。その「観る」というのも、ここで用いられている言葉で言い表します。ここから生まれた言葉が、シアターという言葉です。シアターもセオリーも、元は同じギリシア語から出ている。集中して観察する学者のごとく、芝居に心を注いでじっとそこへ溶け込むようにして観ている観客のごとく、主イエスが私たちの礼拝をじっと見ていてくださる。いや、もっと深く関わって見ていてくださる。

     高橋保行という、お茶の水にある聖ニコライ堂の司祭をしておられた先生が書かれた、『ロシア精神の源』という小さな書物が、中央公論社から出ています。この書物は、当時、ソ連が態度を改めて、キリスト教会に長い間加えていた弾圧を止め、キリスト教会との平和的な共存に努めるようになり、どこの教会堂にも人が溢れるようになって来た、その状況に鑑み、ロシアの人たちを養って来た信仰の心について歴史的に解き明かしながら、その本質がどこにあるかを語っている書物です。その冒頭にこういう話をしておられます。ロシアの教会は、ギリシャ正教の流れを汲み、ロシア正教とも言います。その信仰のひとつの大きな特色はイコンを尊敬するということです。イコンは、日本語で「聖像」と訳されます。主としてイエス・キリストですけれども、聖母マリアや使徒たちの像も、このイコンに描かれている。教会堂の中にも家庭にも板絵のイコンがどこにでも置かれるものです。

     ところが革命が起こった時に、このイコンを撤廃した。その代わりに、指導者スターリン、レーニン、それらの人びとの肖像を掲げさせたのです。別のイコンの崇拝を求めた。イコンに描かれている主イエスのまなざしをどの部屋にも置いて、その主のまなざしの中で生きるということと、政治家たち、指導者たちの目がこっちを向いている中で生きるのとでは、まるで意味が違うものではないかと思うのです。

     しかし、主のまなざしは変わりません。主イエスのまなざしがじっと見てくださるところで、私たちの行為が、生き方が問われる。

     このやもめは生活費全部を入れた。この「生活費」と訳されている言葉の本来の意味は、「日々のいのち」と言ってもよいのです。この女は、神に対する信仰を、その自分の存在のすべてをそこに置くことによって明らかにしたのです。

     ここで私たちが心惹かれるのは、これから主イエスがもうすぐに十字架につけられて殺されてしまうということです。その時、なお読み進めると第14章に至って、あの最後の晩餐に先立つ時に、主イエスがベタニアの村で食事の席についておられた時、三百デナリオンの香油をもって、主イエスに、それを注ぎ込んでしまった女が登場します。弟子たちが、つまり、男たちが女性の先に立つどころか、神殿の大きさに圧倒されている。その弟子たちよりも先に、このふたりの女性が主イエスのみもとにひざを屈めている。それを主がどんなにお喜びになったでしょう。

     先ほど詩編第86編を読みました。この詩編にやもめのその心にあったものが現れて来ていると思います。「主よ、わたしに耳を傾け、答えてください。わたしは貧しく、身を屈めています」。このやもめの物語について書いたある人が、最後にこう言っている。自分はどうしてもここで、あの主イエスが山上の説教において、「心の貧しい人々は、さいわいである」と言ってくださった祝福の言葉を書き記さないわけにはいかない、と。主はここでこの貧しいやもめをさいわいだと呼んでいてくださるのです。この詩編の詩人もまた、わたしは貧しく、身を屈めて祈る、と言います。そして「主よ、主よ」と呼び続け、「主よ、憐れんでください」と、しかし、信頼を込めて語り続けて、11節に至って、こう歌うのです。「主よ、あなたの道を教えてください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように 一筋の心をわたしにお与えください」。神を敬うところに「一筋の心」が生きる。一筋の心の祈りがここで語られています。

     9月に入り、今年もあと4か月の私たちの歩みがどのようなものになるかは誰も予測がつきません。しかし、そこでいつでも、主のまなざしに変わることがないことを信じ、それに信頼し、私たちの全存在をもって、その主の愛に応える道を作って行きたいと心から願うものです。主はどんなささやかな献げものをも、そこに私たちのいのちが込められている時、喜んで受け入れてくださると信じます。お祈りをいたします。