カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 死に立ち向かう愛

    2018年9月9日
    エゼキエル書13:8~23、マルコによる福音書14:1~9
    関 伸子牧師

     今日の福音書の1節に「さて、過越祭と除酵祭の二日前であった」記されています。この「2日前であった」をギリシア語原文では「過越祭と除酵祭は2日後に迫った」、そういう文章です。そうすると今日から2日後だとすれば、どうしても明後日になるようです。けれどもそれは実際には誤解になるので、本当は、私たち日本人の日の数え方から言うと、「過越祭と除酵祭はもう明日のこととなった」ということであり、言ってみれば足かけ2日ということなのです。

     受難週、主イエスがエルサレムにお入りになった日が日曜日で、それから始まった1週間、復活に至るまで7日の出来事の道半ばのちょうどこの日は、今日の週日の数え方から言うと水曜日です。翌日、木曜日の出来事が、12節以下の除酵祭の第1日という言葉から始まるのです。ユダヤの暦では1日が日没から始まります。今日1日が終わった。新しい日が夜と共に始まる。

     過越祭と除酵祭とが、なぜふたつここに並べて出て来るのでしょうか。過越祭は、出エジプト記が記しているように、出エジプトの出来事に由来します。しかし、小羊がそこに登場して来るように、牧畜の生業と結びついた「いのちの祭り」であったと考えることができます。除酵祭というのは、〈除酵〉という言葉が示しているように、パン種を入れないパンを食べる祭りという意味です。そしてこれは本来収穫の祭りでした。しかし収穫は、本当はもっと遅い時、6月頃であると一般に説明されています。この過越祭と一緒に祝われる除酵祭というのは春の祭りですので、まだ収穫はありません。明らかに日を移したのです。

     いつ祝ったかというと、ニサンの月の14日といいます。このニサンというのはおもしろいことに、ギリシア語でもなくヘブライ語でもなくて、バビロニアの言葉です。なぜバビロニアの言葉が入ったのかというと、昔私たちも学校で習ったように、バビロニアは、ずいぶん早く文明が発達しました。特に暦法が世界でも最も早く発達した地方です。ですから暦の数え方も、バビロニアに教わるところがあったのだと思います。ニサンの月というのは、陰暦で、ちょうど満月が春分の後に来る月のことをニサンの月と呼んだのです。そのニサンの月の14日に過越祭と除酵祭が同時に始まって、過越祭は14日、15日だけで終わりましたが、除酵祭は1週間続きました。ふたつの祭りを同時に祝ったのです。
     そのようにして神に生かされて生きる者の「いのちの祭り」がここで始まろうとしています。それがもう明日。いのちの祭りの準備をしている、そのような町の興奮の中で、しかしそのいのちの祭りを指導し、司るべく務めを与えられている祭司長、律法学者たちが何を企てていたかというと、主イエスを殺そうという計画です。

     このマルコによる福音書は第1章の1節に、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書きました。これから書くことは、神の子イエス・キリストの福音の出来事、私たちに喜びと望みをもたらす「いのちの出来事」なのだと、それを書き始める喜びに溢れて筆を起こしました。そして第14、第15、第16章と筆を進めた時に、第16章では、墓に納められているはずのイエスの肉体を求めて来た人びとに、天使が、「イエスはもうここにはおられない」と告げます。あなたがたが求めているイエスは甦ってここにはおられない。やがて弟子たちは蘇りのイエスに会って、そこで与えられた命令は、「この福音を全世界に宣べ伝えなさい」というのです。そこではただ死が語られただけではなく、新しい「いのちの祭り」が始まることを告げます。しかもすべての祭りに勝つ力ある大きな祭りになります。ここで、ようやくその頂点に達している出来事を書いているこの言葉が世界中で読まれ、説かれる。その時にどうぞこの女のした事も忘れないでほしい、この女のことを思い起してほしい、この葬りの備えは、いのちの祭りに向かっての備えであったというのです。ここに既に「復活のいのち」が輝き始めています。

     イエスがベタニアで、重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたときのことでした。そこにひとりの女が入って来ました。招かれない客です。しかも明らかに男性たちだけで食事をしていました。そこに入って来たのです。名前もここでは分かりません。どういう経歴の者であるかについてもマルコは関心を持ちません。この女が持って来たのは、ナルドの香油です。

     ナルドの香油は外国からの輸入品で高価でした。匂いが逃げないように、石膏の壺にいれて、使うときだけ、それを割って用います。いわば一回限りです。1デナリオンというのは、1日の労働者の賃金だと言いますから、300デナリオンはほぼ1年分の賃金になります。それは異常なほどに主イエスにすべてを注ぐ行為でした。

     なぜそれができたのでしょう。おそらく低いところにいたからだと思います。人びとがこの女の行為を見て憤慨します。この香油は300デナリオン以上に売れるはずだ。それを貧しい人に施したらいいではないですか。この言葉に対して主イエスがお答えになった言葉が7節にあります。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない」。

     ここに示されるのは、何よりも「献身の美しさ」であると思います。ひとすじに身を献げた者の心と存在は美しいものです。主イエスは、この女の美しさを認めて、この美しさが見えるようになることを求めておられます。そしてこの美しさの中で、主イエスはますます十字架への決意を深められたことであろうと思います。私たちは、どのようなものをナルドの香油として主に注ぐことができるでしょうか。そのことを問い続けながら、私たちもまた望みをもってこの福音書を読み続け、喜びに生き続けたいと願います。お祈りをいたします。