カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • まことのふるさと

    2018年9月23日
    記12:1~9、ヘブライ人への手紙11:8~22
    関 伸子牧師 

     今日は、先に天に召された方々を覚えて礼拝をささげています。週報と一緒に、先に天に召天された方たちの名簿をお配りしました。その名簿にある方たちの多くは、この礼拝堂で共に礼拝をささげられた、私たちが親しくしていた、また、愛していた家族でした。信仰に生き、あるいは信仰に死んだ、信仰の先輩たちです。

     多くの方たちは「信仰に生き」と言いました。信仰とは何でしょう。信じるとはどういうことでしょう。ヘブライ人への手紙は、この第11章に入って、そのことを、自分も、また自分の言葉の聴き手もよく知っている信仰の先輩たちの、信仰に生き、あるいは信仰に死んだ姿に学ぼうとしました。この8節以下に登場してくる人びとのうち、その主たる人物は何と言ってもアブラハムです。そしてその子イサク、またそこ子ヤコブの名も挙げられます。ユダヤの人びとは、自分たちはアブラハム、イサク、ヤコブの子孫であることを、誇りをもって語りました。この人たちは、しばしば族長、つまり部族の長という言葉で呼ばれます。しかも、単なる民族の先祖であるだけではなくて、歴史の中に生きた信仰の民の先祖たちでした。ですからこの手紙を書いた者、手紙のもとになった説教をした者は、自分の読み手、聴き手の中にユダヤ人だけではなくて、異邦人がたくさん混じっていたに違いないのですが、そのことに少しもお構いなくアブラハム、イサク、ヤコブの話をします。それを聞く異邦人キリスト者もまた、自分たちはこの信仰の血筋を受けついており、われわれの中にはこの信仰の血が流れている。そう信じたのです。私たちの教会も同じことです。その信仰の血によって私たちもまた生かされているのです。

     ところで、自分たちはアブラハム以来の信仰の民の歴史を持っていると私たちが思うとき、それは、どこからその歴史を数えるのでしょうか。先ほど創世記第12章の1節以下を読みました。その頃はまだアブラハムでなくアブラムという名前でした。そのアブラムの名前は第11章の終わり近く、その父親の名と共に記されています。しかし、自分たちの信仰の民の歴史はアブラハムが神の言葉だけを聞いてそれに従って旅立ったところから始まる。新共同訳は第12章の最初に、「アブラムの召命と移住」と小見出しを記しました。アブラムが神に呼ばれ、召されたのです。ヘブライ人への手紙も8節に、アブラハムは「召しだされると、これに服従し」と記しています。

     信じるとは「呼ばれる」ということです。そして故郷を「出る」ことです。心惹かれるままにこの手紙を読み始めたときに、困惑して立ち止まって考えてしまった言葉のひとつが、この第11章9節です。「信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み」と言うのです。「他国に宿るように」、家を造らないでテントに住んだだけで、基礎を据えなかった。

     事実、創世記を読み進めていくと、創世記第23章に至って、アブラハムの愛する妻サラが死にました。周囲の人びとにアブラハムは頼みます。わたしはここで土地を持たぬ、よそ者として生きてきた。妻を葬る土地もない。何とかしていただけないだろうか。もちろんお金は払います。このことをヘブライ人への手紙の著者もよく知っていたのだと思います。後の人びともしばしばよく思い起こした。あのアブラハムは自分の土地を持たなかったことを。

     なぜアブラハムがそんなことができたのでしょうか。そこが重要なことです。10節に「アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです」とあります。16節に「彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していた」と書いています。信仰とは故郷を出て行くこと。そしてこの天にある故郷を仰ぎつつ、旅することであったのです。

     ヘブライ人への手紙はそのことをこのように説明するのです。「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です」。アブラハムはすでに〈甦りの信仰〉に生きた。ヘブライ人への手紙の終わりの言葉からも光が射しているのです。それは第13章20節、21節の言葉です。「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン」。

     「羊の大牧者の祝福」と呼ばれるものです。信じることは、確かにそれは明らかに冒険の連続です。人としては、もう自分の妻も子どもを産めなくなっている。しかし子どもが誰ひとり無いところでなお、子孫が増えることを信じるのも冒険です。見知らぬ土地にいて土地を買おうともしないで、そこに居続けるということも冒険です。不安の種ばかり作るようです。しかし平安なのです。天にある故郷を見ているからです。そして私たちに天にある故郷を見せてくれる、いわば天窓のごときものが主イエス・キリストの甦りです。

     ここに「神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません」とあります。神はわたしの神と呼ばれることを恥とはなさらない。〈この私の神〉になっていてくださる。そのために主イエス・キリストは私たちを訪ねて来てくださっています。そのような神に呼ばれ、そのような神を私たちの神となし得ているさいわいを心から感謝したいと思います。若い人たちに祝福がありますように。そして高齢者としての歩みを続けている方たちにも祝福がありますように。年を取った方たちを身近に置きその方たちに仕え、いたわりながら生きている人びとにもまた、天の故郷がいつも鮮やかに見えていますように。これを私たちの共通の祈りとしたいと思います。