カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 幻を見る自由

    2018年10月7日
    ダニエル書7:1~14、マルコ14:53~65
    関 伸子牧師

     主イエスが地上を歩まれた頃、ユダヤ人の社会を最高法院という議会が支配していました。今日の国会のようなものだとも言えますし、あるいは裁判所のようなものだとも言えます。それを構成していたのは祭司長、長老、律法学者たち、全部で70人で、それに大祭司がひとり加わると71人の会議です。その会議が主イエスをここで裁判に付した。そして死刑にした方がよいという判断を下した。そのことがここに書かれています。

     この当時の人びとは神を信じていました。それなのに、わたしこそその救い主だとおっしゃって来られた主イエスを殺してしまう。主イエスが与えてくださったものがあまりにも小さかったからだという考え方もできます。

     その中でくっきり浮かび上がってくる証言が記録されているのが58節です。「この男が『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、3日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました」。この最高法院で権威を持っている人たちは、皆神殿と結びついて生きている。その神殿をぶち壊してしまう。3日目にさっさと造り直して見せる。しかも、手で造らない別の神殿を造って見せる。主イエスがこの通りのことをおっしゃったという記録は福音書の中にはありません。ただヨハネによる福音書第2章を読むと、主イエスがエルサレムにお入りになって、神殿で商売している物を縄を鞭の代わりにして追い立てられて、そこで、あなたがたがこの神殿を壊してごらん、そうしたらわたしは3日目に建て直してみせるとおっしゃったという言葉が残っています。使徒言行録を読んでくると、この神殿をぶち壊すといった者のやからであると言って、初代の教会の人たちがしばしば非難され、迫害されています。同じ意味の言葉、似た意味の言葉を、主イエスがお語りになったと考えることはできます。

     このエルサレムの神殿が造られた時、造営にあたった王ソロモンは、神殿を神に献げつつ、こう祈っています。「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができましょうか。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくはありません」。このような神殿にあなたを閉じ込めようなどということは、少しも考えていないのですと祈ったのです。最高法院の議員もソロモンの祈りを忘れているはずはない。忘れていたはずはないけれども、実際の生活の中では忘れるのです。神殿を造り、そこで礼拝をし、そこで自分たちの信仰生活がしっかりしたものになったと思った時に、それにしがみつく。そこから自由になれないのです。神殿を超えて生きておられる主なる神の姿を思い見ることができなくなるのです。信仰の幻を失うのです。

     小さな物差しにおける試しに、主イエスは超然としておられます。けれどもそこで主イエスは、ただ打ち叩かれるただの人であり続けられたのです。しかもこの時にも主イエスご自身は幻を見ておられたと思います。どんなに人が悪くなっても、どんなに人が残酷になっても、神の愛と義は必ず勝つという幻です。

     先ほども言いましたように、使徒言行録にたいへん興味深い記事が出ています。ステファノの長い説教について延々とここで説くことはできません。その最後、第7章の47節にステファノはこう語っています。神のために家を建てたのはソロモンでした。けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っているとおりです。「主は言われる。『天はわたしの王座、地はわたしの足台。お前たちは、わたしに どんな家を建ててくれると言うのか。わたしの憩う場所はどこにあるのか。これらはすべて、わたしの手が造ったものではないか』」。

     天を超え地を超えて神は存在し、しかも至るところに自由にご自身の礼拝の場所をお造りになる、なぜエルサレムの神殿にこだわるのか、とステファノは、ここで神の自由を語り、神の愛の自由を語りました。人びとはそれを聞いて腹を立てて遂にステファノを殺します。更に先へ行って55節、「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、『天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』と言った」。

     私はここを読むと不思議に思うのです。人の子が神の右に座しているのではない。立っておられるのです。ステファノはイエス・キリストが神の右に立って、こちらを見ておられるのを、幻の中で見ているのです。ここで打ち倒されるステファノを見て、神の右にあるイエスが立ち上がっておられる。この幻は大きな、まことに深い望みを語る幻だと思います。そしてこの幻は皆さんにも見えるのです。どこででも信仰をもって見る時に、「イエスさまはわたしのために立ち上がってくださった」という幻を見ることができるのです。

     人生において挫折はいくらでもあります。けれどもその挫折も、私たちの物差しが小さいと、たいへん大きな挫折になります。入りたい学校に入れなかった。願っていた職場に就職をすることができなかった。健康でありたいと思っていたのに病気になった。私たちが小さな物差しで一喜一憂していると振り回されて病気になるだけであるかもしれない。私たちは、しかし、そこから自由にされるのです。大きな神の物差しの中で生き続けることができるのです。神の愛は変わらない。イエス・キリストを送ってくださった神の確かさは変わらない。だから私たちは主イエス・キリストとその救いのみわざを小さくしてはいけない。そこでそのような罪を犯さないように戦わなければならない。これは、年老いた者も年若き者もすべてを生かす、神が与えてくださる大きな幻による闘いです。すべての思い惑いから自由になって、この幻に生きたいと心から願うものです。お祈りをいたします。