カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 神の大きな手の中で

    2018年10月14日
    エレミヤ書5:20~25、マルコ14:66~72
    関 伸子牧師 

     先ほど、マルコによる福音書第14章の66節以下を朗読しました。これに先立って、主イエスが大祭司の指導の下にある最高法院で裁かれている物語が記されていますけれども、その物語の最初の記述として54節に、「ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた」と書いているのです。もしこれをひとつの劇にたとえて言うならば、これから同じ舞台の上で、同じ時間の間に演ぜられるひとつの出来事がある。そこに登場する人物をここで一気に紹介する。

     ここにふたりの主役がある。主イエスとペトロです。一方は毅然たる態度で自分の信念にしっかりと立って人びとからどんなに糾弾され、辱められ、裁かれても、死刑の判決を受けても、揺るぐことがない。他方はつい先ほどまで、死ぬまでこの人について行くと豪語したにもかかわらず、上で裁かれている人の仲間ではないかと言われて驚いて慌てふためいて、しどろもどろになっている。

     54節で「ペトロは火にあたっていた」と記していますが、これが67節でももう一度繰り返されて、「ペトロが火にあたっているのを目にすると」と書かれています。

     「火にあたっている」というのは、自分を暖めている、そういう意味の言葉です。ところが、54節の方では、何によって暖めているかというと、「光で自分を暖めていた」と、「光」という言葉がそこで用いられているのです。

     ペトロは、主イエスのことが心配で一度逃げたのだけれども、後をついて来てとうとう大祭司の家の中庭にまで入って来た。やはりちょっと寒かったのだと思います。それで上で裁判が行われている間、しばらく手持ち無沙汰になった下役の者たち、仕えている者たちが火にあたっているのを見て、そっとそれに近寄って行った。しかし、自分が体を温めているのは、自分の姿を明らかにしてしまう光であることを突然悟らされる。あなたはあのナザレのイエスの仲間であろう、一緒にいたのをわたしは見たんだよと、女のひとりに言われるのです。

     この「ナザレのイエス」という言葉は、これは独特の響きを持つものです。ナザレのイエスを神の子・メシアと言い表すことが、私たちの信仰の基本であり、喜びの言い表しであるのですが、実は、聖書においてナザレのイエスと言う時には、もう少し別の意味も込められていました。ナザレのイエスから始まった勝手気儘な宗教運動をやってのけ、われわれを脅かし混乱させている者たちという意味です。

     第14章68節、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」。周りの者たちが言い出す、あなたの言葉はガリラヤ訛りがある、確かにこの女の言う通りだ、あなたはナザレのイエスの仲間であったであろう。

     71節は驚くべき言葉を語ります。「すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、『あなたがたの言っているそんな人は知らない』と誓い始めた」。「誓う」という言葉がすでに信仰的な表現です。神「呪う」ということは、自分自身の人生が祝福の中にないということを認めるということです。

     なぜイエスはわたしを捕らえ、弟子にするなどと言われたのか。わたしは、そのおかげで、自分の人生を無駄にしたではないか。ペトロはやはり自分自身を呪っている。まさしく闇の中に立ったのです。

     女が初め、あなたはイエスと一緒にいたと言った時、ペトロはそこで恐れてしまった。それには理由もあることであろうと思います。滅んで行く者は裁かれているイエスとその十字架に、神の知恵を見出すことはできない。ペトロがこの主イエスに躓いたのです。しかし、塞がれていると思っているその先に、私たちが読み終わった72節は、「いきなり泣き出した」と書いて終わっています。

     ここでひとつの場面は終わるのです。「いきなり泣き出した」、ここにこのように訳されている言葉は、自分自身を投げ出すという意味に使われています。突然、彼は崩れて泣き出しました。我が折れるのです。ペトロの魂のうちにおいて、この涙は乾くことはなかった。そしてその涙を神は見守られたと思います。そして、甦られたイエスは、このペトロを訪ねてくださいました。聖霊降臨(ペンテコステ)は、この崩れて涙の中で祈り始めたペトロに対する神の答えです。

     あなたがたが十字架につけて殺したイエス。わたしも呪ったのだ、この方を。そしてそのイエスを神はわたしたちの主として立ててくださった。まさに神の子メシアであることを明らかにしてくださった。ナザレのイエスを神のみ子・メシアと信じるということは、このぺトロの説教の言葉を、私たちの言葉として言い表すことです。

     私達の教会堂には十字架がついています。しかし、ヨーロッパに行くと、十字架がついていなくて鶏がついています。なぜでしょう。暁を告げる鳥だからです。まだ暗闇なのに、もう主イエスの甦りのいのちがここを支配し始めていると、望みを告げる教会の務めを明確に言い表すものだと信じたからです。

     そしてもうひとつ、この鳥はペトロの裏切りを、そして私たちの神の祝福をいつも否定してしまう心を言い表すものでもあります。ちょうど十字架が私たちの罪を表すものとして掲げられるように、この鳥を教会の建物の上に仰ぎ見る者は、ペトロを思い起こしました。そして、私たちもまた、神の祝福の中に何度でもかえっていかなければならないと思い起こす、よすがとするのです。

     このペトロの物語は教会の歴史の中で最も大切にされて来た物語のひとつです。私たちも皆、このペトロの涙の重さを知っているからです。そしてその涙が、神の大きなみ手の中で、どんなに軽やかないのちの輝きを、光を帯びることになったか。もうペトロは暗闇を求めることはなくなったのです。お祈りをいたします。