カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • さいわいを造る主

    2018年10月21日
    イザヤ書43:22~44:5、マタイ5:1~12
    関 伸子牧師 

     マタイによる福音書第5章から7章まで、ここに記されている主の教え、現在は、これを〈山上の説教〉と言うのが通例です。ここで大切なのは、神の救いを宣べること、それを告げることです。「こころの貧しい人たちは、さいわいである」。ギリシア語では、いきなり、「さいわいである」、という言葉で始まるのです。

     ここに、「さいわい」と訳されているギリシア語は、かつて、ギリシア人たちが、まず神々のことを語るのに用いたものと言います。地上の苦しみの中に這いずりまわる人間が、この苦しみや悲しみから無縁のはずの神々の生活を想像する。そして、その神々のさいわいを呼ぶのに、この言葉をもってしたのだと言うのです。

     九州の牧師だった、佐藤俊男という方が、『生と死と—ニューギニアの一兵卒』という手記を書かれました。この方はニューギニアのマノクワリというところで敗戦を迎えたのです。そこには15万の軍隊が派遣されていたのですが、最後まで生き残って、帰ってくることができたのは、4万余りであったと、書かれていました。そのような状況において洗礼を受け、神学も勉強していたのに戦争に連れ出されたひとりの青年が、何を考え、どのように生きたかが、よく語られていると思います。

     たとえば、こんな文章があります。「軍隊に入って、私が一番最初に痛烈に感じたことは、日本人という国民が、自分がそれまで考えていたより、ひどく劣等であるという一事であった」。そのような状況に生き続けていく時、常に問われるのは、この人間憎悪の世界の中をどこまでも生き抜くということでした。

     主イエスは、他の誰に対して、この賞賛の言葉を語られたのでもなく、ご自分のあとについてきて、その言葉に耳を傾ける弟子たちに対して、わたしが今語りかける言葉を聞きなさい。わたしが描き出す人間の姿を見てごらんなさい。これこそ賛美されるべきものだと言われたのです。ひとりの牧師は、人間憎悪の世界に耐えて生きること、そのことこそ戦争の苦しみだと言われました。しかし、戦争が終わって、誰ひとり憎まなくてもすむ世界が、今、ここに始まっていると言えるのでしょうか。私たちが一日多く生きるということは、この悲しみの中に、なお一歩足を踏み込むことを意味するのではないかとさえ思うのです。

     そういう私たちの現実を、私たちよりも、もっとよく知り、もっと深く悲しんでおられる主イエスが、そこで、その中に生きる私たちに向かって、わたしについてくる者はさいわいなのだ! と呼ばわれるのです。

     ここで主がさいわいだと呼んでおられる人、その人の生きるところは、貧しさであり、悲しみであり、柔和であり、義の欠乏に苦しむところです。損をしてでもあわれみに生きることであり、汚れの中で清さを保つことであり、争って勝ちたいところで、なお平和に生きるのです。迫害されて生きることです。悪口をあびることです。これらはすべて、世の常識がさいわいと呼び、しあわせとするところを、ひっくり返しているのです。人びとが、あちらこちらとさいわいを求めてうろうろ歩くような時に、まさしくここにこそさいわいがある、と主イエスは言われるのです。そして、その言葉について、ご自分の責任をお取りになるのです。

     先程引用した佐藤俊男という方の書物は、何気なく読むと、あまりキリスト教的な書物という印象を与えられないものです。聖書の言葉の引用があるわけでもありません。宣教師も、原住民の信仰生活も、淡々と描かれるのみです。ただこの人は、その書物のごく初めのところで、「笑い」について書いています。自分はこの地獄のような生活の中で、時々ふとおかしくなってしまうことがあった。それは、もしかすると、その地獄の世界で、自分が仰ぎ見ることができなくなっても、なお自分を生かしてくださる方によって生かされたことを示すのではないか。

     どこで主イエスは責任を取っておられるのか。私たちがここではっきり思い起こしておかなければならないのは、主が十字架につけられた方だということです。父なる神とは、このイエスを甦らせた方であるということです。このことを忘れたり、無視したりすれば、山上の説教はわからなくなります。

     主イエスがここでさいわいを告げられる時、なぜさいわいなのかを説明なさいます。天国がその人のものとなるからです。慰められるからです。地を受け継ぐからです。飽き足りる程になるからです。このように積み重ねられる言葉のひとつの特色は、特に4節以下の翻訳に明らかにみられるように、すべて将来のことです。将来必ずそのようになるとの約束です。そして、「天国は彼らのものである」という、今ここにおける事実を告げる言葉が語られます。

     今ここに神が生きて支配しておられるということ、それはどこでわかるのでしょうか。人生のしあわせな経験、魂の感動、そこで、神は生きておられると、思わず賛美の声をあげます。しかしまた、それだけに、神が生きておられるなどとどうして言えるか、生きておられるとしたら、何と残酷な方であろうかと呟かざるを得ない悲しい経験も、何度も重ねています。そこで、決定的に神の臨在を告げたもの、神の恵みの支配が始まっていることを示したもの、それは主イエスの十字架以外の何でしょうか。主が殺されてくださったこと、死に赴いてくださったこと、そしてこれを父なる神が甦らせてくださった。そして、この主のみわざを今ここに明らかに告げる教会があることではないでしょうか。ここに生きて働き、私たちの心を十字架と復活に向けさせる、霊なる神の働きがあるのです。そしてこの主イエスが、私たちに、あなたがたは必ず慰められる、飽き足りる、神を見ると、断言し、約束してくださっているのです。

     ここに山上の説教の教えに生き、さいわいに生きる道が開かれています。今ここにそれは開かれ、私たちはそこに生き始めているのです。お祈りをいたします。