カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 不思議な建築計画

    2018年10月28日
    イザヤ書5:1~7、マルコによる福音書12:1~12
    めぐみ教会 荒瀬 牧彦牧師
     
     「ぶどう園連続暴行・殺人事件」の譬えである。穏やかでない。イエス様の譬えの多くは、いわゆる譬え話(パラブル)である。その場合、譬えの中のある一点が現実に対応していて、あとの要素は聴き手のうちに自由にイメージをふくらませるために用いられる。しかし今日の譬えはそれと異なり、寓話(アレゴリー)である。寓話は、登場人物や行為が、直接に誰かのことや何かのことを指していて、聞く人は「ああ、この登場人物は誰誰さんのことだ。あれは誰のことだ」と思い当たる。
     では、どう思い当たるのか。読み解いてみよう。「ある人」は神、「ぶどう園」はイスラエル。「農夫たち」はイスラエルのことだが、特に指導的な人たちを指すというのがおいおいわかってくる。収穫を求めて送った「僕」は預言者。最後の手段として送った「愛する息子」はイエス御自身。つまり、このひどい農夫たちというのは、イエスを激しく攻撃した祭司長・律法学者・長老たちであり、神がイスラエルに求め給う収穫、すなわち神のみこころにかなった生の実りを神にささげるどころか、神の愛する子を「外」(エルサレム城壁の外)で殺してしまうであろう、ということである。

     どんな反応があったのか?二つのことが起こった。これを聞いた「祭司長、律法学者、長老たち」が、これは自分たちのことを言ってると気づいたということと、もう一つは、気がつきはしたが猛烈に反発して「こんなことを言う男は消すしかない」と思ったことである。

     人には、自分に問題があると突き付けられる時がある。ダビデがウリヤの妻バト・シェバを奪い、ウリヤの命まで奪いながら、その罪に気づいていなかった時、預言者ナタンが現れて寓話を語った。たった一匹の羊しかいない貧しい男から、その大切な羊を奪った金持ちの話を聞いて「なんてひどい奴だ」とダビデは激怒したのだ。ナタンはそのダビデに「それはあなたのことだ」と真実を突き付けた。ダビデは泣き崩れ、悔い改めて祈った(詩編51編)。

     「この話は自分の罪を指摘しているのだ」と気付かされた時、あなたはどうするか。これはわたしのことだ。そう気付く者、気付いて真に悔い改める者にとっては、イエスの言葉が招きになる。棄てられた石が隅の親石となる。そこに建てられる救いの家にきなさい。あなたをそこに迎えたいのだ。――自分の捨てた石が、自分を招いてくれるという不思議が起こる。
    捨てられた石から新しいことが起こる。新しい世界が始まる。ここで大切なのは、石を捨てる側から、捨てられた石の側へと視点が移ることだ。捨てられた石から世界を見るのである。

     ある沖縄の牧師が、この聖書の箇所を読んでこう言った。「沖縄はずっと捨て石にされてきたのだ」。彼は、捨てられた石キリストの姿に、沖縄の歴史を重ねて聖書を読んだ。歴史を振り返れば、沖縄はまさに日本国の捨て石として利用されてきた。そして今もそうである。恥ずかしいが私は、沖縄の視点からの「捨てられた石」の読み方を聞くまで、「イエス」と「沖縄」が捨て石であることにおいて結びついているとはまったく気づかなかった。それは、今自分の国のせいで誰かが苦しめられているということに対して無知と無関心を決め込んでいたからである。自分が捨てられた石だったら、どうなのだろう――そこから聖書を読み直さなければならない。

     「これは主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」
     神様は、不思議な建築計画をお持ちである。捨てられた石を、隅の親石。なくてならない石とされる。捨てられたキリストが、世界の人たちのための要の石となられた。そして、このキリストは、捨てられた多くの小石の側に立っておられる。そして、そこから新しい世界を作られる。

     神の愛の不思議がこの建築計画のうちにある。強いもの、威張っているもの、身勝手な振る舞いをするものが、無価値だと決めつけて、「こんなものいらない」と捨てた石は、神様の目に、尊い、かけがえのない石なのだ。「生産性がない」とある人たちを切り捨てようとする国会議員のいる国にあって、われわれは放り捨てる側から、捨てられた石の側へと身を移し、そこで聖書を生きようではないか。キリストを救いの要石として用いられた神は、無価値と断じられた小さな石の一つひとつを大切に用いて家をお建てになる。