カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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    2018年11月4日
    列王記上10:1~10、ルカ11:29~36
    関 伸子牧師 

     ルカによる福音書第11章の29節以下は、主イエスのところに、群衆が激しく集中して、わぁっと集まって来る姿を描いています。ところが、これに対して主イエスの最初の言葉は、「あなたがたは悪い時代を作っている」と言われました。

     主は、こう語られました。「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」(33節)。群衆をせき止めておいて、改めて招きの言葉をお語りになっているのに、なぜ、はいって来ることができないのかと言われるのです。

     34節には、「目が澄んでいれば」という言葉があります。この「澄んでいる」という言葉の反対の言葉、それが、ギリシア語では、「邪悪」という言葉なのです。「邪悪な時代」、それは言ってみれば、「澄んでいない目の時代」ということです。この時代を生きている人たちの目が澄んでいない、悪い目をしている。だから時代が悪くなってしまうのです。

     ある説教者は、ここのところで、こう言いました。「天からの〈しるし〉を求め続けて、主イエスご自身がそこにおられるのに、その言葉に耳を傾けることができず、その姿に目を留めることができない思いとは、膝をかがめることができない心という一語に尽きる」。突っ張ったままということでしょう。突っ張ったままで、神の前に立って、「あなたが神であるならば、われわれを救う神であるならば、このように救うべきだ。このように〈しるし〉を見せるべきだ」と求め続ける。その〈しるし〉はどこにあるのかと、むしろ主イエスを前に、怒り狂ってしまう思いです。膝を屈めるということ、それは、31節においては、南の女王がソロモンの知恵を聞くために地の果てからはるばる来たという、その姿で語られているものです。また、二ネベの人びとが、ヨナの宣教の言葉によって悔い改める柔らかさを持っていたことを指摘しつつ、主イエスが指し示しておられることです。この「南の女王」は、列王記あるいは歴代誌にも登場する「シバの女王」のことです。シバは、今のイエメンのあたりではないだろうかと言われます。そのような遠方から、はるばるやって来たシバの女王が、ソロモンの知恵の言葉を聞き、そのすばらしさに圧倒されて素直に膝を屈めた。それに似た謙遜さは、どこにあるのかと、主イエスは問うておられる。大切なことは、このシバの女王が、ユダヤの民、神に選ばれた民には属していないということです。

     もうひとつ語られるのはヨナの話です。預言者ヨナは、ニネベという、それこそ、邪悪の町と呼ばれるのにふさわしい町に行けと神に言われて、それを断った。そして舟に乗って主の前を離れようとします。しかし、結局は海の中に放り込まれて、大きな魚に呑み込まれ、その中で3日3晩を過ごした。その魚の中で、主なる神に悔い改めの祈りをします。そして吐き出されたところが、自分が派遣されるのを断ったニネベの町であり、そこで神の言葉を語ったという物語です。そのように、やむを得ずヨナが説教をすると、ニネベの人びとが、ヨナが考えていたのとはまるで違い、素直に説教を聞いて悔い改めてしまった。そこで、神の審きは行われなかった。そこで、話が違うとヨナは、神さまに文句を言いました。これがまた、おもしろいところです。ニネベの人びとは、ヨナが腹をたてるほどに、素直に神の言葉を聞いて悔い改めの道を歩んだのです。主イエスは、ですから、あなたがたをさばくのは、ニネベの人であり、シバの女王だと言われたのです。

     おそらく、シバの女王の物語などは、私たち日本人にとっては、あまり縁のない話かもしれませんけれども、ユダヤの人びとは、私たちが言う旧約聖書の話を幼い時から読み聞かせられて、自分たちの信仰の言葉、自分たちの誇りの書物として心に刻んできていました。シバの女王が、われわれの先祖、王ソロモンのところへやってきて膝を屈めたなどという話は、何度聞いていても、気持ちがよかったに違いないのです。ユダヤ人としての誇りを満足させる物語であったと思います。ヨナの物語にも、そういうところがあったと思います。ニネベの町、邪悪な人びとの住んでいる町、その町に悔い改めをさせた神と預言者の物語です。

     しかし、主イエスは、それは、あなたがたの目がどんなに邪悪であり、複雑になってしまっており、濁ってしまっているかということを示す以外の、何ものでもないと言われました。シバの女王もニネベの人びとも、あなたがたに比べれば遥かに澄んだ目を持っている。そしてご覧なさい、そのソロモンにまさる者、わたしがここにいる。ヨナにはるかにまさる者、わたしがここにいるではないか。どうして見えないのか。どうして聞こえないのか。主イエスは、深い嘆きの中で、この言葉を語り、しかも招いてやまなかったかということを、私たちはここに、もう一度、はっきり思い起こさなければなりません。

     目が澄むためには、膝を屈めることが求められているのです。立ちはだかって、目をらんらんと光輝くように開いていても、その目が澄んでいるわけではありません。その濁ってしまう目を清めるために、群がり集まる群衆の手によって、主イエスが、ついにご自分のいのちをおとされるところまで歩んで行かれたのです。私たちの目にとりついてしまっている濁りを取るために、主イエスは、ご自分の手をそこに添えるために、とうとう行くところまで行ってくださいました。そうなると、私たちは家の中に入る時に、今度は、ひとりで入らないですむようになるのです。主イエスと一緒に入って行けばよいのです。主イエスと共に入って行けば、どこにでも、あかりをともすことができるのです。そして、そのあかりの中に、人びとを招くことができるのです。お祈りをいたします。