カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 救いの前ぶれが聞こえるか

    2018年11月11日
    出エジプト記33:1~11、ルカ3:1~14
    関 伸子牧師 

     今朝読んでいる、ルカによる福音書第3章以下は、聖書の勉強をすると、ここから主イエスの公生涯が始まると教えられます。芝居にたとえて言うと、序幕がすすみ、いよいよ本筋の物語が始まる幕が開くというところですけれども、この第3章を読んでいると、主イエスご自身の言葉が記されているわけではありません。

     ここで語られるのは、まずユダヤ人の頑固さです。それに対して投げつけられる神の怒りの言葉を洗礼者ヨハネは語っています。このユダヤ人の頑固さは、昔からの特質だったようです。先ほど出エジプト記の第33章を読みましたが、この書では、ユダヤの民が改めてエジプトの奴隷状態から神さまに導き出されるその間に、すでに神の命令に何度もそむいて叱られている姿を語ります。

     小さい時から教会学校に通っていたある牧師がこのところで、昔の聖書は、文語訳で、「うなじ強き民」と訳してあった。ユダヤの民はうなじ強き民。これを聞くとおこわを連想した。そのことを教師に言うと、「そうだ、おこわのように固くなっていて、首をたてにふることができなくなってしまう。動かそうと思うと、横にしか動かなくなる」と言ったその言葉が、子ども心に残ったと記していました。

     そのようにかたくなっている心をやわらげるために、神は、幾たびも、預言者を寄こしました。ここに登場する洗礼者ヨハネも預言者です。預言者イザヤの言葉がここに成就すると、ルカ福音書は4節以下に書きました。「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」。これはイザヤ書第40章3節以下の引用ですから、その5節の言葉を言い換えていると見ることができます。「主の栄光がこうして現れるのを 肉なる者は共に見る」。

     この福音書を書いたルカは、自分もキリスト者でした。ルカ自身はユダヤ人ではなかったのですけれども、その自分を含めて、私たちが主イエスを心からやわらかな心をもって迎えるために、まず洗礼者ヨハネの言葉に耳を傾けなければならないと言うのです。2節に、「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」と書いています。この「降った」という言葉は、そのまま訳すと、神の言葉が出来事になった、神の言葉が事件になった、という表現です。神の言葉が、かたくなになっているユダヤの民のこころを動かす。

     このルカ福音書の、洗礼者ヨハネの描き方は、ヨハネがした洗礼、バプテスマそのものよりも、その語った言葉に力点を置いていると言われます。3節にはこうあります。「そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」。それから、18節にはこうあります。「ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた」。この3節と18節とに挟まれて洗礼者ヨハネの活動が語られているのです。

     悔い改めにふさわしい実を結びなさい。この実とは何でしょうか。悔い改めに生きること、喜びのなかに立ち返ることは、ルカによる福音書の中心主題です。この、喜びのなかに立ち返っていく、その姿があなたがたの生活に見えてくるはずだ。それが見えてこない時に、神の怒りは爆発するのであって、その神の怒りに対しては言い訳するすべもないというのです。

     この、喜びの実を結ぶというのは具体的な生活においてです。ルカの記述の特色が出てくるのは10節以下の記事です。

     そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。

     神が与えてくださっている喜びに生きることができなくなっているしるしが、下着を二枚持っているときに、持たない者のことを思い出すということがなくなっているということでした。食物を豊かに与えられている者も、そのかたわらにありながら食物を与えられていない者のことを思い起こすこともない。そこにも私たちのこころのかたさが表れる。兵卒が兵卒であることをやめる必要はない、取税人に、人びとから蔑まれる生活を投げ捨てて、取税人であることをやめ、家族を路頭に迷わせるなどというようなことを考える必要はない。ただ、その職業にまつわる、他者を無視する罪から自由になりなさい、と言うのです。

    新聞は、現代の家庭の崩壊をひたすら語っています。何でもない夫婦が、一緒に生きていくことが難しくなっていることを描きます。共に生きていくことが難しくなっている。夫婦だけのことではない。年老いた者と若い者とが、共に生きていけなくなる。神の悲しみはそこに向けられます。力ずくで、力に溺れて、自分のやりたいことだけやって、かたわらにいる人の悲しみに目が留まらなくなる不幸は、依然としてまだ続いているではないか、という神の悲しみに気づけばいいのです。主イエスはそこで、喜んで共に生きる世界を造ろうとして来られたのです。

     私たち一人ひとりの生活はほんとうに小さな、ささやかなものですけれども、主イエスをほんとうに喜んで迎えているならば、どんなにしあわせなことでしょう。