カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • パラダイスが近づく

    2018年11月25日
    ハバクク書3:17~19、ルカ23:39~43
    関 伸子牧師 

     この朝、与えられているルカによる福音書が語っている、主の十字架の記事を読んでいると、ここには、十字架におられる主イエスと、主と共に十字架につけられている、ふたりの犯罪人と呼ばれている者たちとの対話が記されています。

     ここでは、十字架につけられている主イエスが、自分と一緒に十字架につけられている男に向かって救いを告げておられるのです。
     それは、43節の「すると、イエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた」という、この言葉です。「天国」、片仮名で書き記すと「パラダイス」。この「パラダイス」という言葉を、主イエスがお語りになったと記録されているのは、ここだけです。この「パラダイス」という言葉は、新約聖書全体でも三度しか出てきません。このパラダイスという用語については、海津忠雄さんという方が『愛の庭』という本で書いておられます。

     書物の表題の「愛の庭」の庭が、実はパラダイスという意味を持つのです。パラダイスとは、もともと庭という意味を持っていました。王宮の庭は、たいてい高い塀に囲まれています。ペルシャの王、当時、もっとも権力を誇った王、その王が造った庭はどんなにすばらしいものであろうかと、皆、心に思い描く。それをパラダイスと呼んだのです。創世記の初めに現れるエデンの園もまた、この言葉で訳されました。人類は、もう遂われてしまってそこにいない。失われた楽園。今は手が届かない、ただ憧れ慕うより他ないような庭をパラダイスという言葉で呼んだ。

     やがて、主イエスが伝道なさるようになった頃、ユダヤの人たちの中に、ひとつの信仰が生まれていた。それは、このパラダイスは失われた過去に属するのみではない、これから、自分たちに与えられるところだとするようになりました。これからの救いにあずかるところです。神のみこころに従って、正しい生活をした者が、このパラダイスの中に迎えられる。そして、やがて必ず訪れる神の最後の勝利を待つことができるのです。

     ところで、この42節に「そして、……言った」と訳されている言葉があります。40節のところに、「もう一人の方がたしなめた」と既に記されていました。この男にとって、なお望みがあるとすれば、主イエスでしかない。あなたは確かに、み国をもたらす権威、神の支配の権威を既に持っておられる。必ず、神の正義の実現のために来てくださる。そして、あなたが来られたとき、自分のような男は、そのあなたが造られる神の正義の支配からも排除されるのが当然であるかもしれない。しかし、なおそこで、ただあなたの憐みにのみ、すがって願わざるを得ない。今、絶望的な死を遂げなければならない自分にとって、なお望みがあるとすれば、そのあなたの憐れみ以外の何ものでもない。私のことを覚えていてください。

     まさに、この十字架につけられている主に対して、同じ十字架につけられている犯罪人と共に、私たちが言うべきことはこれです。私たちは、救われるということにおいても善悪にこだわりがちです。教会にあっても、この男と私とは違う。簡単に一緒にされては困ると、どこかで思っているのではないだろうか。教会の中でも、そのように差別が生まれる。キリスト者のくせに、と人を裁き始める。

     先ほど、ハバクク書第3章の言葉を読みました。「しかし、わたしは主によって楽しみ、わが救いの神のゆえに踊る。わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし 聖なる高台を歩ませられる」。この雌鹿のように軽々と主の力によって立つことがないと、私たちは、いつまでも、自分たちの功績を数える重い足かせから、なかなか自由になれません。この雌鹿のように突然、高いところにまで跳び上がることができる軽々した脚を手に入れるのは、私たちが手に入れるのではないのです。洗礼を受けるとか、聖餐を受けるとかいうことは、ただひたすら、この主によって翻される、そのことを願ってでしかない。

     この男が、このように願いを述べたとき、思いがけないことが起こります。「はっきり言っておくが」、これは、アーメンという言葉です。主イエスが、特別な思いを込めて、ご自身の権威をもって告げられる真理の言葉、その言葉を語る時に用いられる表現です。はっきり言っておく。よく心にとめるがよい。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。やがて力をもって来る時に、というのではない。今この日にと言われました。一挙に、パラダイスを手元に引き寄せるような言葉です。

     パラダイスという言葉そのものに秘められている、高さ、難しさが消えてしまった。主イエスの、あなたは、わたしと一緒にそこにいると言ってくださった、その言葉だけで、パラダイスは近くなるのです。

     この男は、既にこう言うことができました。40節、41節の言葉です。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」。

     この男は、自分の仲間にこう言いました。お前には神への恐れがない。主を畏れることは知恵の初め、という詩編第111編10節や箴言第1章7節の言葉を思い起こす人も多いでしょう。この犯罪人こそ、その知恵の初めを知ったのです。主の前に、うずくまるようにして、謙遜の限りを尽くすことを教えられながら、神を神として拝むところ、そこに始まる知恵です。

     この十字架の上での対話の中に、教会の救いがあるし、私たち、一人ひとりの救いがある。教会そのものがある。人類のすべての救いがここに現れている。この事実に、こころからのアーメンを、私たちの側からも言わずにおれないのです。お祈りをいたします。