カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 救いが近づく

    2018年12月2日
    エレミヤ33:14~16、ルカ21:20~28
    関 伸子牧師

     今日、私たちはルカによる福音書第21章に入り、主イエスの地上における伝道の歩みの最後の部分で、主イエスの言葉の一節を聞きました。「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい」。主イエスは私たちの生きていく姿勢は、頭をあげて歩く、身を起こして歩く姿勢なのだと教えておられるのです。

     私たちが、頭をあげる時とはいつなのでしょうか。たとえば、勝利したときでしょう。優勝力士は勢いよく、顔をあげています。また、自分の正しさを確信しているとき、自分の生きている道、考えていること、すべてが正しければ、なおうなだれて歩く必要はないのです。しかし、主イエスは、ここでは、そのようなことは何も言われなかった。「このような事が起こりはじめたら」と言われました。「このようなこと」とは何か。おそらく、何よりも、20節以下に記されていることでしょう。

     このエルサレムの都が、軍隊に包囲されて滅ぼされる時がくるということです。明らかなことは、このルカによる福音書が主イエスのみ言葉を書き記している時に、すでにこのことは事実になっていたということです。紀元70年、その前年69年からすでに包囲を始めていたローマの軍隊によって、エルサレムの都は落ちた。21節に、「そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」とあります。伝えられているところによれば、エルサレムに教会がありました。使徒言行録は、その教会についてしばしば書いています。当時、百万の人が死んだそうです。
    自分たちの都が陥る時に、そこを逃げることを潔しとしない人びとがとどまったのでしょう。23節に、「身重の女と乳飲み子を持つ女」とありますが、そうした女たちも留まったかもしれません。しかし、実際には多くの教会員は逃げた。そのひとつの根拠は、この主イエスのみ言葉にあったと推測されます。神は、むしろこのエルサレム包囲の出来事を通して神の民を審いておられる。その神のみこころを見抜いた時に、あなたがたは、滅びを共にする必要はないとイエスが言われるのです。

     主の言葉はさらに続きます。「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る」。27節に、「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」とあります。「人の子」とは主イエスご自身です。主イエスご自身が、再び雲に乗ってこられる。それを人びとが見るのです。主イエス・キリストの力と栄光とが、はっきり見えてくる。その時に、神の真理の前で、自分たちの力だけで、もう揺らぐことはないと思っていた、すべてのものが揺らぎ始める。主はそういわれるのです。これが神の審きです。人の子が来られる時、審きが起こる。神が語られた真理、神が語られた愛、神が語られた義こそ、世界を作るものだということを軽んじた者は、そこで審かれざるを得ない。神さまなしでもやっていけると思っていた自分の足もとが揺らぐということです。

     私たちが、しっかりこうべを上げて、身を正して歩くことができるのは、神の審きを確信している時です。イエスが身を起こし頭をもたげよ、と言われるのは、これらのことが起こり始めたら、「あなたがたの救いが近づいているから」。私たちが、救われるときを待つのです。この「救い」と訳されている言葉は、解き放たれることを意味します。私たちを、取り押さえている恐れがあり、不自由であり、不信仰があり、弱さがあり、臆病があります。そのすべてから解き放たれるのです。救いは、私たちを捕らえているものから私たちを解き放ってくださることから始まる。それを信じるときにこそ、真実の意味での望みが生まれるのです。

     私たちが、なかなか顔を上げて生きていくことができない、そのひとつの明確な理由は、人を恐れることです。人の過ちや、人が犯した罪を数えて裁くことは何でもないことです。けれども、神が、私たちの罪を真剣に問題にして審かれる時に、神はそのご自身の審きの中から、新しく立ち直る道を必ず開かれるのです。

     パウロはユダヤの人びとが、神の救いの道において、どのような定めにあるのか、改めて問いました。そのことを書き始める第9章の初めにおいて、「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」(3節)と書きました。なぜ、自分の血肉をわけた同胞ユダヤ人がイエスを殺したのか。なぜ、イエスの言葉に耳を傾けないのか。なぜ、悔い改めなかったのか。神よ、あなたの審きは真実だ。しかし、その審きの中から彼らを救うのも、あなた以外に誰もいないではないか。あなたの救いの道が成り立つためには、この私が呪われてもいいのです。

     ここには、ユダヤ人を呪うこころはありません。神の審きを信じるということは、この神の救いを信じることと同じことです。そうでなければ、いったい、ここに集まっている、私たちの誰が神の審きに耐えることができるだろうか。ルカが伝える十字架上の主イエスの祈りは、「父よ、彼らをおゆるしください」という、自分を処刑する者たちのための祈りでした。ここに現れている主イエスの恵みの不思議さと深さと広さとを思うとき、なぜ、なお頭を上げることができないなどと言えるだろうか。私たちは、どのように愛の証しを立てたらよいかわからなくなったり、うずくまり、立ち上がることもできないほどの疲れと弱さのなかに打ちひしがれることはいくらでもあります。けれども、そこから立ち直うる道は私たちの中にはない。身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの救いは近づいている。いや、もう既にきている。そう語りかける主の言葉を聞くときです。それを信じるときです。主が、十字架につけられたとき、神が主を甦らせたとき、私たちの救いは、既に私たちのものとなっている。それ故にこそ、こうべを上げて、主よ来てくださいとの望みを、新しくすることができるのです。