カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

礼拝説教の要旨をご紹介しています

  • 〒184-0011

    東京都小金井市東町2-14-16

    0422-31-1279(電話・FAX)

  • すべての人の救いのために

    2018年12月9日
    エレミヤ1:4~5、17~19、ルカ4:14~30
    関 伸子牧師 

     今日、ご一緒に読みますルカによる福音書第4章14節に、「イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた」と記されています。主イエスがガリラヤに帰ってこられたのは、「イエスは聖霊に満ちて」(1節)、ヨルダン川で預言者ヨハネと出会って、天からのインスピレーションを受けた直後という、いわば充電のあとではなくて、ユダの荒れ野における苛酷な40日を過ごされた放電の後、”霊“の力に満ちて、「聖霊の力で身を固めて」と訳し得る、その状態でガリラヤに帰って来られました。

     16節以下は、ご自分がお育ちになったナザレに行かれて「いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった」。そのように書き始めています。主は幼いときから信仰の教育を受けられました。12歳になられると、ユダヤの男の子の通例として、もう一人前の信仰者として扱われた。その頃から、主イエスは安息日、今で言う土曜日になると会堂に来られ村の仲間たちと礼拝なさった。
    シナゴーグと呼ばれる会堂は、神の民の信仰生活、また社会生活の拠点でした。主イエスはナザレの会堂でこのように朗読しました。18節以下です。

     これは、イザヤ書61章1~2節の言葉です。主が特にこの「主の霊が私の上にいる」で始まる箇所に引き付けられたのは、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受け、天から聖霊がイエスの上に下ってきたからでしょう。そのあと、イエスは聖霊に導かれて悪魔の試みを受け、預言者、王、祭司としての資質を試され、そのすべての資質を神の思いにかなった形で示したということがルカによる福音書の第3章に記されています。イエスが遣わされたのは真の預言者、真の王、真の祭司としてであり、そのようなものとしてイエスは、貧しい人々に福音を伝えます。

     このイエスの言われた言葉のなかで、「圧迫されている人を自由にし」という一節だけはイザヤ書58章6節からの挿入です。ここで「自由」と訳された言葉は、18節の「捕らわれている人に解放を」と、「解放」と訳された言葉と同じです。「解放」も「赦し」も苦痛の解消ですけれども、その苦痛を生み出す原因は異なっています。「解放」の場合の苦痛は、他人が加える圧迫ですけれども、「赦し」の場合には、自分が犯した罪がもたらす苦痛です。ルカがここで、圧迫からの「解放」も、罪がもたらす苦痛からの「赦し」も同じ言葉アフェシスで表すのは、どちらもイエスを通して働く神のわざだからです。

     ですから、主の霊が「わたし」の上にあるのは、「主がわたしに油を注がれたから」と述べ、「わたし」と「主」の関わりの深さを強調しています。福音を告げるイエスの背後には神がおられます。宣教は神と主イエスの共同のわざであり、その目的は「解放」を実現することであるということを心に留めたいと思います。

     主イエスは「主の恵みの年」を告げます。「主の恵みの年」とは「ヨベルの年」のことですけれども、この年が巡ってくると、売却された土地は返還され、奴隷は元の身分を回復することができました。イエスは罪に捕らわれた人びとに赦しをもたらすことによって、人のあるべき姿を回復させ、真実の解放を実現されます。

     また、イエスが説いたことはヨベルの年の新たな実現でもあるので、「今日」という日から言わばそのヨベルの年が開始され、いずれ人々があらゆる束縛から解放されることがイエスによってまず宣言されたのです。そして、耳が与えられた者に主イエスの言葉が届くとき、神が創造される新しい「今日」が誕生するのです。

     しかし、次の節以降で示されているように、イエスの口から出る恵み深い言葉に驚いたナザレの人びとが結局はイエスに憤慨し、崖から突き落とそうとしたことが語られています。

     主は、そのような故郷の人々に、「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と宣言します。彼らの思いは自分たちだけの利益だけを求めています。しかし、預言者は神に身を開く人です。神の言葉を受け入れない人は神から遣わされた預言者をも受け入れることができません。

     神の救いを宣言するために、身内にとどまらずに、外に出ていくのが預言者の使命です。神はすべての人の救いを望んでいるからです。身内意識にこだわり自分たちの利益のために利用しようとして預言者を引き留めようとする動きと、神に促されて外へ外へと突き動かされる預言者の動きとは、おのずとすれ違うはずです。

     怒りに満たされた彼らは、イエスを自分たちの共同体とは異質なものとして排除しようとしますが、イエスは「彼らの真ん中を抜けて」立ち去ります。しかしやがて、ついにこの憤りに捕まってしまいました。殺されるのです。しかし、神はなお、その中を主イエスを通り抜けさせました。甦らせられたのです。そして、そのことを知ったパウロは、私たちが神の敵であった時、私たちが、なお信仰弱くして神に敵していた時に、その敵意によって殺されたイエスの死を通じて、神の私たちに対する和解のわざが始まったと言いました。神の愛の出来事が起こったというのです。このためにこそ、主は人となられたのです。ナザレの村人の仲間となってくださったのです。そのようにして私たちの仲間である人間になってくださったのです。私たちもこの主イエスにおけるわざを通じて、なお神さまを信頼する道を覚えたのです。神が愛してくださり、私たちのためにしてくださったことに、私たちはすべてをゆだねる思いを持ちたいと思います。自分の狭さを破り、神の言葉という新しい世界へと出てゆくなら、恵みに満たされることになります。神の言葉は外へと広がる力を秘めているからです。私たちは主イエスを閉じ込めるのではなく、外に向かわれる主イエスの後を追うべきなのでしょう。その時に、私たち自身からも解き放たれる喜びを味わい得るのです。お祈りいたします。