カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 沈黙の恩恵

    2018年12月16日
    イザヤ書55:1~11、ルカによる福音書1:5~25
    関 伸子牧師 

     ルカによる福音書第1章において、ルカは、主イエス・キリストの救いの物語を書き始めます。ここで注目したいのは、すでにこのはじめの物語で喜びが語られることです。その喜びの知らせを最初に聞くことに導かれたのが、エルサレムの神殿の祭司であったザカリアでした。
    ザカリアとエリサベトはすでに年老いていました。二人は神を信じて、神の御前に、神を仰ぎ望みつつ、真実に生きていました。ひっそりと生きて、祈り、礼拝する生活を続けていました。その人たちの小さな祈りと礼拝の生活の中で、この喜びを告げる言葉が聞かれるようになりました。ここに、私たちの礼拝の生活の最初があるように思います。教会はこのザカリアの礼拝の歴史を受け継ぐものです。そして、ひそかにですけれども、揺るがない喜びを聞き続けて生きていくものなのです。

     ザカリアとエリサベトの存在はユダヤ人、さらに地上のすべての民族の祝福と結びつくものです。しかし、この二人は、この時、神の偉大な救いの歴史に目が開かれていませんでした。この二人には子どもがありません。神が事を起こされる時、たとえば、創世記第15章にはアブラハムにイサクという息子が与えられた時、ハンナが、サムエルを生んだ場合も、そうでした。人間の側に、希望が消えてしまっている時、その時に神は事をなされるのです。しかし、人生のさまざまな営みのなかで、神の祝福が目に見えず、こんな自分には祝福が与えられていないのではないかと思うことさえある、私たちの日常の歩みです。

     天使が喜びのおとずれを告げに来たのは、その時です。ザカリアは、そこで「主の天使」(11節)と出会います。「ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた」(12節)とルカは記します。ザカリアの恐れは、神の臨在ゆえの恐れです。祭司としてのザカリアにとって最大の関心事は聖所での務めをとどこおりなく果たすことではなかったのではないか。しかし、ここでそうはいかなくなった。手順通りにいかなくなった。そのために不安になり、恐れた。

     全く思いがけない突然のことのようですけれども、神にとってはそうではないのです。神の計画と人の計画、神の思いと人の思いは異なるのです。天使は、「ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた」と語りかけます。神は私たちの思いを超えて、私たちが思っている以上の恵みをくださるお方です。

     先ほど、イザヤ書第55章のみ言葉を読みました。異邦の王であるキュロスがなぜ解放者になりうるのか、侵略者に決まっていると不安がる捕囚の民には、預言者の言葉は信じがたいものと映ります。そこで、イザヤは神の「思い」と「道」は人間のそれをはるかに超えていることを思い起こさせるのです。神が語ることばはむなしく戻ることなく、必ず出来事となり、神が「与えた使命を必ず果たす」と捕囚の民に説き聞かせます。

     福音とは良い知らせのことであり、この時点でザカリアには不明確ですけれども、神の子イエスの到来に先駆けて、その準備をする人が到来するという良い知らせです。神はかつてエリヤを遣わし、今からは洗礼者ヨハネを遣わし、そして神の子イエスを遣わすのであり、こうして、神の働きが自らの計画に基づく確かなものであることを人々に知らせています。

     信じないザカリアに、ガブリエルは告げます。20節、「あなたは口が利けなくなり、このことの起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」。天使の言葉は神から委託された言葉であり、神の定めた時に必ず実現されるのです。ザカリアはこのような天使の言葉を知んなかったために、口が利けなくなった。こうしてザカリアは沈黙が与えられました。再び、ザカリアの口が開かれるのは、ヨハネ誕生の後です(64節)。

     ザカリアは黙る。黙らせられるのです。もし、物を言うことが知性のしるしであるとすれば、その知性が黙る。人間の知恵が黙るのです。神の知恵の言葉に耳を傾けるためです。しばらくの間、何も語ることはできなくされました。では、聞くことはできたのかというとどうもそうではなかったようです。62節には、ザカリアに人々が「手振りで尋ねた」とありますから、おそらく耳も聞くことができなくなっていたと思われます。

     24節を読むと、「妻エリサベトは身ごもって、5か月の間、身を隠した」とあります。まだ子どもが生まれていないのです。家族ふたりで、ただ黙って少なくとも5か月の間引きこもっていました。このエリサベトがついに口を聞いたのは、イエスの母となったマリアが訪ねてきた時です。

     教会の礼拝は、私たちの知恵が黙る時です。教会は、私たちが沈黙を学ぶところです。ヨハネに続いて、主イエスが登場なさった時、主イエスもまた、ずいぶん多くの言葉を語られましたけれども、そこで主イエスが明らかにされたことは、自分の願うところではなく、神の願いが成就するということでした。

     教会は、私たちがずいぶんおしゃべりをするところです。その私たちのおしゃべりの中で、神の声が聞こえてくるようになる。そのためにも黙っていることの恵みを、よく知りたいと思うのです。

     聖霊の働きが、私たちを変える。そして、この神の言葉こそ、私たちを真に癒し、真実に慰め、立ち上がらせる。今、私たちも黙して、神が私たちに語られておられること、神ご自身が私たちの生活の中に入り込んでこられるそのことを待ち続けたいと願っています。すでにその神の物語が、始まっていることを信じて生き続けたいと思います。お祈りをいたします。