カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 思いをひとつにする

    2019年1月6日
    イザヤ書62:1~7、ローマ12:9~21
    関 伸子牧師

     ローマの信徒への手紙第12章に書かれていることは、前半は教会の中に、福音がどのように生かされるかということでした。今日ご一緒に読んでいるところでは教会の内外にあってどのように生きるのかということを使徒パウロが語ります。まず第一に、「あなたがたを迫害する者のために祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」。一般的に言えば、迫害する者が教会の中にいるわけがありません。私たちが、信仰生活をしているから、迫害するという者たちのことでしょう。

     迫害する、という言葉は、追いかけてくるという意味です。今日、私たちには、目に見える迫害はないかもしれません。しかし、信仰を持っているかいないかという基本的なことが関係しているために、根本的に意見が違ってみれば、その和解は、容易なことではないと思います。信仰の戦いは、一日中、いろいろな意味で追いせまられ、信仰が試されます。その試練は、追いせまる相手を祝福し、呪わないでいることができるかどうか、ということです。

     信仰者の生活は、神とともに生きる生活です。それならば、自分の心のすみずみまでも、その人のために思わなければ、祝福を祈ることはできないからです。

     このような祝福と祈りとは、具体的にはどのように現れるのでしょうか。それが、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」–私たちが今年標語聖句としている言葉です。人間にとって、何が難しいといって、喜ぶ人とともに喜び、悲しむ人とともに悲しむことぐらい難しいことはありません。それでいながら、どの人にとっても、喜ぶ時に一番欲しいのは、一緒に喜んでくれる人であり、悲しい時にほしいものは、やはり、共に悲しんでくれる人です。改革者カルヴァンはこの箇所の注解書で、兄弟の繁栄を見て喜ばないのは羨みであり、兄弟の不幸を見て悲しまないのは、不人情だと書いています。こういうところで私たちの姿が表れてくるのです。

     こう考えてみると、自分を責める者を呪わないで祝福することと、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くことは、同じように難しいことが分かります。しかも、問題は、相手にはなくて、自分にあることが、はっきりしてくると思います。

     主イエスが私たちのために死んでくださったのは、主が私たちを知り、私たちと同じ罪人の立場にまで降ってくださったことです。それなら、その救いを知っている者は、人と共に喜びまた泣くことが、何であるかが分かるのではないでしょうか。

     まず、「互いに思いを一つにする」のです。これは、考えを統一するというよりは、ひとつのことをお互いに考えるということです。お互いの気持ちを合わせようというのではなくて、お互いに同じことを考えるのです。さらに、根本的なことを勧めているのです。それは、キリストにおける一致です。信仰者たちはお互いに自分が賢者であると思いあがることなく、へりくだっている人々と共にいるのです。ですから、それは、すぐに、うぬぼれない、つまり、高ぶった思いをいだかないことになるのです。キリストの真似ではなく、キリストを信じることによってのみ与えられる謙った思いがなければ、人間はいつも、高ぶった思いに支配されるものです。

     パウロは、律法に自信を持ち、イスラエルに属することに限りない誇りを持っていた人です。そういう誇りを一切捨てたのちにも、主を誇る(コリント一1:31)と言い、また、自分には何も誇るところがなく、ただ、弱さを誇る(コリント二12:9)と言った人です。そのパウロにとって、身分の低い人たちとの交わりが大切であるというのは、どんなことであったかた思われるのです。

     迫害する者のことから、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くことになり、それが、この謙った生活に導くことこそ重要な信仰の生活なのです。

     パウロは、主の言葉を、自分の言葉で言い直しているようにさえ見えます。悪人に手向かわず、右の頬を打つなら、左の頬も向けなさい(マタイ5:39)の代わりに、あらゆる人の前で、非難されることのない生活をしなさい、と言うのです。悪にどう対するかという例も、一般的な信仰生活から離れてはあり得ないことなのです。

     そのことは、さらに次のことでも分かると思います。ここでは、「すべての人と平和に過ごしなさい」と勧められています。悪をする者に対しても、これと平和に過ごすようにせよと言うのです。しかも、そこにも、「できる限り」と書いてあります。キリストの許しを受けた者にとっては、その範囲は無限になることでしょう。なぜなら、キリストの許しは無限だからです。

     その理由は、おそらく、2つあるのではないかと思います。ひとつは、和解の相手がすべての人ですから、教会以外の人もみな含んでいるわけです。もうひとつは、次に出てくる神の配慮に対する信頼です。悪に対してどうしたらいいかは、神のみがお出来になることで、人間には、最後の始末をつける力もなければ、資格もないのです。平和に過ごすために必要な正しさについては、神にお任せするほかはないので、私たちのなし得ることは、自分にできる範囲だけということになるでしょう。

     それ故に、神の恵みを知る者は、何をも恐れることなく、また、思い煩うことなく、敵を愛し、その愛によって、悪に勝つのです。

     私たちは礼拝堂の十字架を見ながら礼拝をささげています。このローマの信徒への手紙第12章を読んでいると、私たちの心の中に主の十字架が立つ。私たちの信仰と生活に十字架が立つ場所を作る、そこに私たちのすべてが懸っていることは明らかです。私たち一人ひとりの心の中に、そしてこの交わりの中に、まことの神の愛の怒りと赦しのしるしである十字架が立っていると信じ、告白したいと心から願うものです。お祈りをいたします。