カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 神の子とされる

    2019年1月27日
    エゼキエル34:23~28、コリント二6:11~7:1
    関 伸子牧師 

     新約聖書の中には、手紙が多くあります。手紙にも種類があります。ことに、新約聖書でいえば、ローマの信徒への手紙のように、よく考えて計画を練った上で書いたのではないかと考えられるものもあります。特に、コリントの信徒への手紙のように、宛先の教会にも多くの問題があり、その教会と執筆者のパウロとの間も複雑であれば、手紙の内容も、必ずしも整うというわけにはいかなくなるのではないかと思います。しかし、聖書の不思議さはそこにあると思います。そのように整わない、人間的な書き方の中に神の言葉が啓示されている。

     パウロはあたかも「子どもたちに対するように」(13節)、自ら心を開き、コリント教会の人々に心を開いてくれることを求め、率直に、ほんとうの気持ちを打ち明けます。パウロの手紙のひとつの特徴は、信仰の内容を書いたあと、その信仰による実際生活の勧めを書くことです。ところが、このコリントの信徒への手紙二はそうではなくて、複雑な自分の生活の中に、両方を語っていることです。

     そこで、まるで、突然のように、「不釣り合いな軛につながれてはなりません」と言っています。軛につながれる、というのは、動物を同じ軛につないで、働かせることです。たとえば牛とろばとか、馬と羊とか、全く違った動物が同じ軛を負って耕作するようなことを例にとって考えればわかるでしょう。それは自由人の共同作業ではなく、私たちにとって重荷になる、悪い形での混合、混同です。旧約聖書には、その土地の偶像と混合してしまう悪弊が出てきます。確かに、いろいろ他のよい点を取り入れて、成長し、独自のものを高めることは、どの宗教でも言えます。

     しかし、信仰者が、信仰のない人の間に生活するときに、考えなければならないことがあるに違いありません。パウロは、不信仰な者と、釣り合わない軛を共にするな、正義と不法とにどんなかかわりがありますか。キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか、と激しい口調で言っています。ベリアルとは悪の王の名です。そこで、ここに言われていることを否定する人は、誰もないのではないか、と思います。しかし、それなら、信仰を持っている者は、どのように生きたらいいのでしょうか。

     異教徒の市民との交流が禁じられるわけではないのです。問題はキリスト者の主体性が確認されるか否かです。それは、第10章3節でパウロが述べるように、「わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません」。このことの故です。この手紙が書かれた時代には、容易ならぬ悪徳がはびこっていました。ことに、コリント教会のあるコリントの町は、退廃していたことで有名でした。その頃、コリントするという言葉があって、不道徳な生活をすることを意味していました。コリントの教会も、それらの影響を受けて、多くの問題をかかえていました。

     パウロは、決して、信仰者は、みなこの世から出なければならないと言っているのではありません。パウロのコリント伝道は、最初から躓きを覚悟の上の営みでした。なぜならそれを抜きにしては福音にならないからです。パウロが「十字架につけられたキリスト以外」(コリント一2:2)を語らなかったのは、まさにそれ故だったのです。

     ところが、16節になると、突然、話が変わります。義と不義、正しさと不正という問題は、信仰を持っている者にとっては、神を拝むか、神ではないものを拝むか、ということになるのです。それは、礼拝の問題になるのです。

     聖い生活をし、聖くない生活に負けないために与えられているのは、礼拝を中心にした神殿の生活である、ということになるのです。神殿の中心は礼拝です。礼拝によって、神の御臨在を確信するのです。聖さのもとは、そこにあります。ここには、長い、旧約聖書からの引用があります。16節は、レビ記の第26章11節、エゼキエル書第37章27節などを合わせたものです。そこに記されていることは、神が、われわれ信仰者の間に住み、かつ出入りされる、ということです。

     私たちは、主日毎に、礼拝をささげます。しかし、私たちは、その礼拝を、自分たちのしていることしか考えていないのではないでしょうか。この礼拝は、神が、お求めになったのです。神がお招きくださって、私たちに会ってくださるのです。それならば、その恵みは、すべて、神から出るものではないでしょうか。

     そこで、17節が意味を持って来るのです。17節も、イザヤ書第52章11節、エレミヤ書第51章45節などを合わせたものです。そこで言われていることは、この神との生活をした者は、彼ら汚れた者から分離する力と根拠とを持つことができるのです。最後の18節は、エゼキエル書第20章34節ほか、数か所からの引用です。神に受け入れられた者に対して、神は、その父となり、その者たちを、息子、娘としてくださるのです。聖くないものに触れるなというのは、ただの道徳の教えではありません。キリストによって救いを受けた者に対する、神の願いなのです。

     7章のはじめには、その結論が記されています。その第1は、「わたしたちは、このような約束を受けているのですから」と言うのです。しかし、それを言うのに、「愛する人たち」と呼び掛けて、このような約束と複数で書いてあります。

     ここには、肉だけでなく、霊も、汚れからきよめられなければならない、と書いてあります。キリスト教の信仰生活は、独自の聖さを持っていました。そのことで、有名であった、と言っていいのではないかと思います。しかし、このところ、その特性が失われてきたように感じます。神を神とすることが弱くなり、そのために、神につく者としての聖さが、なくなってきたのではないかと思います。私たちは、救われた者として、自分の救いを全うするために、聖なる生活を熱心に求めたいと願います。お祈りをいたします。