カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

礼拝説教の要旨をご紹介しています

  • 〒184-0011

    東京都小金井市東町2-14-16

    0422-31-1279(電話・FAX)

  • 喜びへの招き

    2019年2月3日
    エレミヤ13:1~11、ルカ5:33~39
    関 伸子牧師 

     徴税人レビは、イエスの招きに応じて、「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(28節)。そして自分の家でイエスのために(28節)盛大な宴会を催しました(29節)。そこには徴税人また罪人、つまり前科者と言い換えてもよい人々、大勢の人々、そしてイエスの弟子たちが同席しています。「大食漢で大酒飲み」(7:34)と悪口を言われたイエスのことですから、遠慮がちに料理を口に運ぶことなどなかったでしょう。主賓席にしっかり席を下ろし、もてなしを喜び、飲み食いされたに違いありません。弟子たちも同様だったでしょう。ファリサイ派の人々や律法学者は、模範生です。その優等生と落第生とが、ここでは同じところにいる。

     祝宴にあたっても喜びに対して心を閉ざし、皮肉を言うことで自己顕示する招待客のようにして、ファリサイ派の人々や律法学者たちは第1の問いをつぶやきます。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」。そして続けて、第2の発言をもって祝宴の喜びに水を差そうとするのです。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています」。

     断食は、当時、信仰の民にとって一般的な習慣でした。ユダヤ教は断食を重んじました。ルカによる福音書の第18章12節には、ファリサイ派の人々は週に2回の断食、これは月曜日と木曜日だと言われる、をしたと記されている。洗礼者ヨハネと弟子たちもまた、断食を習慣としていたようです(7:33)。それなのに、イエスと弟子たちは飲み食いの宴会の主席に座っている。その姿は、彼らにとって、耐えがたい光景だったことは容易に想像できます。

     もっとも、主が断食を軽んじておられないことは、心に留めておく必要があると思います。イエスは、荒れ野で誘惑を受けた間には断食し、いわゆる最後の晩餐の席上でも禁欲の誓いを立てています。初代教会においても、特別な祈りを必要とするときには断食が行われています。しかし、イエス御自身が弟子たちに断食を命じた記録はありません。むしろイエスとその弟子たち、そして初代教会は、定期的な断食に代えて、「喜びと真心をもって一緒に食事」することを教会の習慣としたのです。神の国に生きることは、罪への嘆きや悲しみばかりではなく、喜びや感謝をも含むからです。

     改革者マルティン・ルターは『卓上語録』で次のように記します。「キリストは生き、わたしは洗礼を授けられる。キリストは悲しみや死などの神ではない。悲しみ、死などは悪魔である。聖書にしばしば『歓喜して、喜びなさい……』と言われるように、キリストは喜びの神である。喜びの神がキリストである。あなたがたの首を絞めない恵み深い神をもちなさい。キリスト者は喜ぶ人になりなさい。またそうでなければならない。もしキリスト者がそうでなければ、サタンに誘惑されている」。

     主イエスが用いるたとえには、日常的な経験から始まり、イメージ豊かな画像を描きながら聞き手の想像力を刺激し、非日常的な結末を迎え、その適用は聴き手にゆだねる、という共通の言葉の流れがある。今日のところで語られている3つの短いたとえも、聞き手にショックを与える結末が備えられている。「しかし、花嫁が奪い取られる時が来る」(35節)。「そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう」(36節)。「そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる」(37節)。イエスの喜びの中に迎え入れられるか、そうでなければ、イエスを引き裂き、泥だらけの床に捨ててしまっているか、二つに一つになるのです。

     しかも同時に、そのとき無駄になるのは、「新しい」服、「新しい」ぶどう酒だけではない。「古い」服、「古い」革袋も不格好なもの、さらには、パチンと破れ生き裂かれたものになってしまう。イエスがもたらす新しい生は、伸縮する新しい服、発酵を続ける新しいぶどう酒のように、古い習慣や規則の中には収めきれない。だから、「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れなければならない」(38節)。もしそうでないならば、信仰共同体それ自体が音を立てて崩れていく。

     私たちは、「また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである」という39節の言葉を、主イエスによる皮肉の言葉として聞いたほうがよいのでしょうか。あるいは、ある説教学者が示唆するように、ユーモアをもって語られた言葉として聞くほうがよいのでしょうか。この箇所から、そのどちらかを決定することは難しい。しかしここに、弟のためだけではなく、祝宴に加わろうとしない兄のためにも、家から出てきて迎えようとした、ルカによる福音書第15章から32節に記されている、あの父親の姿を重ね合わせながら、この言葉の響きを聞き取ることは許されることでしょう。

     新約聖書には、主イエスと共にある喜びが、至るところに書かれています。私たちは主イエスを見たことはないけれども、この主イエスを愛してやまない、輝きに満ちた喜びに生きている、と語る言葉があります。私たち教会は花婿イエスの花嫁であると、主イエスを迎える喜びを語る言葉があります。

     喜びに生きている。それは、ほんとうに新しい人生です。主イエスがおられるところに、しかし、いつでもある新しい喜びです。教会は、いつもその喜びのなかに戻って行くのです。その点では、私たち、一人ひとりが、まだまだ古いものに、未練を持っていることに深く気づきたいと思います。そして、新しい喜びのなかに、ただそこにだけ立ち続けることを、もう一度共に願い求めたいと思います。死の床にあってなお、私たちは、この喜びのなかにあって、望みを持って神に召されることができるのです。お祈りをいたします。