カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 神の愛に捕らえられる

    2019年2月10日
    出エジプト20:8~11、ルカ6:1~11
    関 伸子牧師 

     ルカによる福音書第6章の1節以下で、ファリサイ派の人たちの批判は、弟子たちが他人の麦畑の麦を断りなく食べたことではなく、彼らが安息日に麦の穂を手で積み、さらに手で揉んで食べたことに対してなされました。それはファリサイ派の人たちからすれば許されないことでした。10戒の第4戒には「いかなる仕事もしてはならない」(出エジプト20:10)と定められている。弟子たちがしたことは、安息日にはしてはならない仕事に当たるとされたからです。

     取り上げるにも値しない議論のようにも思われます。しかし、主イエスは、このような批判を、真正面から受け止めて答えられます。主がここで引用されたのはサムエル記上21章に記されていることです。ダビデはサウルから逃れる逃亡生活の中で、神の宮に入って、祭司以外には食べることを禁じられていたパンを食べ、供の者たちにも与えた。この話は、命に関わる緊急時には、律法の規則よりも、命が重んじられる実例とされるが、主の弟子たちは特別に、命に関わるような緊急の状態にはなかった。ここではむしろ、ダビデと主イエスとが対比されている。ダビデが神の宮に入って、特別に律法を超えて、パンを食べることが許されるのであるなら、主イエスが弟子たちに麦の穂を摘むことを許したとしても、それは問題にならない。なぜなら、「人の子は安息日の主である」(5節)からである。ここで決定的なことは、イエスとは誰かということです。

     ルカによる福音書において、主イエスは3度、ご自身の死と復活を予告される際に、「人の子」を用いておられます。イエスが安息日の主であることは、非常に大切なことなのでしょう。
        
     出エジプト記20章では、安息日にはいかなる仕事をすることも禁じられる。しかもそれは本人だけでなく、息子、娘、奴隷、家畜、寄留の他国人も同様であるとされる。その理由は、主が天地創造の業を6日間で終えられ、7日目には休まれたからだという。これは、主が創造の業を終えられた日、ご自分の造られたものを祝福し、その祝福の中に、わたしたちを招いてくださるということです。その招きに応えて、わたしたちも仕事を休むのです。

     申命記第5章においては、安息日の理由として、奴隷が休むことができることを挙げます。奴隷については十戒の前文で語られていて、それは出るエジプト記第20章においても申命記第5章においても、全く同じです。それは「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」というものです。ここでは神によるイスラエルの救いの業が語られています。その救いとは、エジプトの奴隷状態からの解放です。そして神による救いの業は、単にエジプトの奴隷である者を解放するだけに留まらず、最終的には、罪の奴隷であるものを解放するまでに至ることを、私たちは知っています。

     安息日をこのように理解した時に、主イエスがルカによる福音書第6章5節で言われた「人の子は安息日の主である」という言葉も新しい意味を持ってきます。出エジプトにおいて神がイスラエルをエジプト王の支配から解放してくださり、神の民として神を礼拝することができるものにしてくださったように、主イエスは私たちを、罪の支配から解放し、神の子として神を礼拝することができるようにするために、来てくださった方だからです。その意味で、真の安息を与えてくださるのは、主イエスなのです。同時にここで、主イエスが、安息日の主として、それまでの安息日理解を踏み越えておられることも、忘れることはできません。ファリサイ派の人々と、主イエスは対立した。それは単なる戒めの解釈の問題ではなく、主イエスの存在そのものをどう受け止めるか、という問題です。つまり、主イエスが安息日の主であることを、信仰をもって受け入れるかどうかです。

     このようなことから、7節にあるように「律法学者たちはファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやさえるかどうか、注目していた」のです。

     そこに一人の、右手が萎えた人がいた。主はその人に「立って、真ん中に出なさい」(8節)と言われた。恐らくこの人は、会堂の隅の方で、身を小さくしていたのでしょう。しかしその人を、主は人々の真ん中に立たせられた。神はこの人に対して、このようになさるのだということを、これこそが神の御心なのだということを、すべて人の前に明らかにするために、主はこの人を呼び、真ん中に立たせられた。

     主は彼らに向かって「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」と問われました。

     ファリサイ派の人々は安息日の趣旨を正しく理解せずに、単に仕事をしないことと考えていた。しかし安息日の主であるイエスのよると、安息日とは安息を実現する日のことであり(6節)、そのためには当然、悪を行うことではなく善を行うことが、また、魂を滅ぼすことではなく救うことが必要である。苦しんでいる人を前にする時、善を行うのか悪を行うのか、傍観者のような中立の立場はありえないことをイエスは示しておられる。

     主イエスの行動は、激しい動きを人間の中に引き起こしました。それは主イエスの行動自体が激しいものであったからです。しかし、その激しさは、神の愛の激しさです。ご自分の独り子を犠牲にしてでも、すべてのものを神の祝福の中に、安息の中に招き入れたいと願われる、神の思いの激しさです。この愛の激しさによって繰り返し捕らえられる。そこに真の安息が生まれるのです。お祈りをいたします。