カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • イエスと共に生きる

    2019年3月3日
    創世記14:18~20、ルカ9:10~17
    関 伸子牧師

     主イエスが5千人に食事をお与えになる、「5千人の給食」で知られているルカによる福音書第9章10節から17節に記されている物語は4つの福音書がいずれも伝える数少ない出来事です。第9章12節に「日が傾き」と記してあるのを読めば、第24章29節の「もう日も傾いて」という言葉を思い起こす。感謝してパンを裂いて渡してくださるテーブルマスターとしての主イエスのしぐさもまた同じです。共に食卓につくことによってはじめて復活された主イエスが生きておられることを知り、その主にお会いすることができたエマオの弟子たちの物語も、ルカの教会では愛されたに違いありません。

     ルカは他の福音書とは違って、この物語を「戸惑うヘロデ」と「信仰を言い表すペトロ」の話の間に挟んでいます。ある人は、8章25節に記された弟子たちの問いが、この箇所の大きな枠を作っていると言います。第8章22節以下で物語られたのは、弟子たちがイエスと共に湖上で突風に遭ったという出来事でした。信仰があるのか、と問われ、恐れと驚きのなかで、共に歩む、このイエスとはいったい誰かと問わずにおれなくなったのです。

     しかし、イエスとは誰かという問いは、他の者たちの胸にも宿りました。この5千人の給食奇跡の直前の6節以下で、ヘロデは「いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は」(9節)と問う。この問いは、やがてイエスの側からの問いとなります。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いに、ペトロは「神からのメシアです」(20節)と答える。ルカにとって、この奇跡は、弟子たちが「神のキリスト」と告白できるための手がかりのようです。

     弟子たちが遣わされたところから帰ってきた時、イエスは彼らを連れて、ベトサイダという町に退かれた。主イエスの場合、群衆を避け、退かれるというのは、いつも祈るためでした。主イエスは彼らを連れて、自分たちだけでベトサイダという町に退く必要を強く感じられたのでしょう。しかし、そこで、今は、リトリートを群衆が許さない。多くの人々はイエスたちの移動に気づき、町からイエスたちの向かうところへと従って行ったのでした。

     12節に「日が傾き」と記しています。日が傾き始める頃とは夕方です。弟子たちは、おそらく疲れていたでしょう。一日の仕事を終えたかった。そこで、群衆には宿と食べ物を捜すために解散してほしかったので、イエスに「群衆を解散させてください」と頼む。イエスの12人の弟子たちは人々の夕食のことを心配した。それは群衆が自分たちで宿を取り、食事を見つけるためです。

     そんな彼らに向かってイエスは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と命じます。この指示は12人には無理な注文だと映りました。
    昨年12月に発行された聖書協会共同訳は、弟子たちのこの時の思いがよく表れる翻訳をしています。弟子たちは、「まさか、私たちが、この民のみんなのために食べ物を買いに行けとでも言うのでしょうか。」「わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです」と言いました。つまり環境が良くないと言うのです。次に「わたしたちにはパン5つと魚2匹しかありません」と言います。パンと魚は、当時の貧しい人々の基本的な食料です。しかし、5つのパンと2匹の魚だけでは、5千人、と言っても、女性や子どもたちを含めて最低でも数万人に配ることになる。さらに、彼らは言いました。「このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」と。自分たちには能力もない。それは課題があまりにも大きいからです。

     ここを読みながら、昨年10月に中会女性会1地区の研修会として、私たちが月に1度行っている「教会デイ」から学ぶというテーマを掲げ、見学させてもらいたいという申し出を受けた時の奉仕者たちの戸惑いを思い出しました。1人の奉仕者が、私たちにできることは何でもさせていただきましょう! と発言されたことで、話の流れが変わった。当日は37人の参加者全員に食事を配ることができ、主の愛をみなさんと分かち合い、主の大いなるみわざを讃える経験をしました。

     主は、人々が持っていたものをわかちあわれる。弟子たちはその仲介役になる。イエスは弟子たちを通して群衆を座らせると、「5つのパンと2匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせ」ます。天を見上げて祝福するのは、天の父なる神が生き物や人々を祝福して増やし続けているように、食べ物を祝福して増やし、人々に与えるためです。

     先ほどお読みしました創世記第14章には「メルキゼデク」が登場します。この名前の意味ははっきりしませんが、創世記14章では、「神が王に語った言葉として、「わたしの言葉に従って、あなたはとこしえの祭司メルキゼデク」とあります。

    アブラハムがメルキゼデクに会う時、彼らはパンとぶどう酒を分かち合う。それは、友情と祝福のしるしである。パンとぶどう酒はしるしである。イエスは弟子たちと夕食を共にした。そして、この晩餐を思い出し、その思い出を更新することによって、神の民の共同体において、いのちは生きたものとして保たれる。

     真の癒しは、キリストから渡されたものを、人々に分けていくときに起こります。この後、聖餐式を行います。牧師が司式をして長老がパンとぶどう汁をお配りします。その給仕の先頭に立っているのが主イエスです。みなさんがもてなされるのです。主イエスは、まさにその支配を、仕えることにおいて実現してくださったのです。主は、私は仕えるために来たと、何度もおっしゃいました。神の国は、そこに現れた。神の支配はそこに現れた。神が私たちを愛してくださっているということがそこに見えた。私たちは、ここで癒され、主の愛を分かち合い、主の恵みの中に立ち続ける喜びのなかに生かしていただきたいと願います。お祈りをいたします。