カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 荒れ野を生きるために

    2019年3月10日
    申命記26:4~11、ルカ4:1~13
    関 伸子牧師

     私たちは、主イエスが洗礼を受けられてから、この地上における伝道の生活を始めるその間に、荒れ野の誘惑があったということを知っています。洗礼、そして荒れ野の誘惑という順序は、聖書を少しでも読むと、もう頭のなかに入ってしまうことですから、主イエスとしては当たり前のことであるかのように思い込みます。しかし改めて考えると、不思議なことであると思います。ここでなぜ、この物語が記されなければならなかったのでしょうか。

     神による試みが何を目的にしているかが、ここに書かれている。それは人の心を探り、神の命令を守るかどうかを知るためですけれども、それだけでもない。「人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練する」と言われるように、人が神の口から出る言葉によって生きることを体験から教えるためである。
     
     雨宮慧神父は『主日の福音』の中にこう記している。「試みる」というヘブライ語は「経験を与える、訓練する」の意味でも使われる。特に、この箇所のように、主語が神であるときには「試みる」というよりは「体験させる」の意味である、と。

     試みるものが神であるなら、「(神の愛を)経験するための訓練」の意味ですけれども、試みるものが人であるなら、「神の力に不信を抱く」の意味となる。神の国の宣教を始めるに当たって荒れ野で試みを受けられた主イエス。しかし、この試みもまた神によるのであると言い得る。

     ルカは「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」と結んでいます。悪魔が戻って来て、イエスと再び対決する時がやって来ます。それは、イエスを裏切ることになるイスカリオテのユダに悪魔が入った時に始まります(ルカ22:3~4)。

     ユダに悪魔が入ったときのように、悪魔は神の力よりもこの世の力を選ぶようにと私たちにもささやきかけます。私たちがこの世の荒れ野を生き抜いて救いに入るために、神の子イエスは悪魔を退け、その誘いの空しさを示しました。

     先ほどお読みした申命記第26章の5節から10節の告白は、非常に古い信仰告白を含んでいるといわれます。「滅びゆく一アラム人」にすぎなかった先祖を神が導き出し、「乳と蜜の流れるこの土地」を与えたこと、つまり歴史における神の導きを恵みとして告白しているからです。人間のいのちは、本来は、神からの賜物である。

     神の子イエスに悪魔は誘惑し続ける。ルカ福音書で悪魔の誘惑のうち2度は「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」とか、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」というように「神の子なら」と述べています。神の子なら、石をパンに変え、神殿の屋根から飛び降りても傷を負わないはずだから、それを実行して神の子であることを示してみろ、と挑発しています。

     主イエスは十字架の上でも同じような言葉を浴びせられました。議員たちは「神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」とあざ笑い、兵士たちも「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と侮辱しました。メシア(ユダヤ人の王)であれば、十字架から降りられるはずなのに、惨めに十字架に釘づけにされたままですから、彼らの目にはイエスはとてもメシアとはいえない人物です。
     しかし、神の救いの計画は異なっていた。十字架から降りるメシアではなく、降りないことによって、すべての人々を罪の束縛から解放することが神の意志でした。

     私たちが日々の戦いをする時にいちばん大切なことは、正しい武器を持つことです。その正しい武器とは何でしょう。ここで、もうイエスがはっきり示していてくださいます。聖書の言葉です。心に刻み、必要とあれば、いつでも開くことができる聖書が戦いの武器となります。イスラエルの人びとはそれができなくなってしまったのです。まことの神を愛し抜きながら、主を試みないで歩く道がどこにあるかということが見えなくなってしまったのです。

     このルカによる福音書は興味のあることを書きます。13節に、「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」と書いたのです。〈定められた時〉とは、いつだったのでしょうか。このルカによる福音書を読んできますと、今年も、やがて私たちは受難週を迎えますが、その受難の物語を書き始めるところで、サタンが「イスカリオテのユダにはいった」と書きました。そこで人間の裏切りが始まり、イエスの十字架の死が起こります。この十字架にイエスをつけたのも、神の言葉をかざす人びとでした。この世の権力者たちでした。そして、新約聖書は不思議なことに、このイエスが十字架につけられたとき、神の勝利が始まったと告げるのです。その暗闇の中に光が射したと語り始めます。

     なぜ十字架につけられることによって、はじめて私たちの救い主となってくださったのか。そのことだけをルカは書いている。主は悪魔に対して十字架の愛をもってお答えになりました。神は、み子を十字架につけられることによって、神であられることを明らかになさいました。ルカ福音書は、このようにして、その十字架への道を、望みをもって、自らの信仰の戦いを刻むような思いで、なおこれから書き進めます。私たちも、自分自身の力では、崩れることが何度もあるかもしれませんけれども、まさにそこで、主のゆえに、霊を注がれて、いま私たちは勝利の望みをもって立っているという確信を新たにしていきたいと願います。お祈りいたします。