カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

礼拝説教の要旨をご紹介しています

  • 〒184-0011

    東京都小金井市東町2-14-16

    0422-31-1279(電話・FAX)

  • 神の救いの道

    2019年3月24日
    ゼカリヤ12:10~11、13:1、ルカ9:18~27
    関 伸子牧師 

     今日私たちが読むルカによる福音書第9章18節以下に記されているペトロの信仰告白と28節以下の山上の変貌が、福音書の「分水嶺」だと言う人があります。印象深い言葉です。この箇所が、分水嶺であり、頂、峠の頂を意味するということは、ここで初めて、主イエスがそこから先どこに向かって、まっすぐに坂道を下り降りるように進んでいかれるか、その神の道が見えたということです。

     神の救いの道が見えるとは、イエスとは誰かということがはっきりするということです。第9章18節以下で主イエスは「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」と問うだけでなく、弟子たちにも「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問いかけています。受難予告と共に、23節以下でも、「イエスは何者か」という問いに焦点が置かれています。

     先ほど、ゼカリヤ書第12章の10節からお読みしました。9節には「その日、わたしはエルサレムに攻めて来るあらゆる国を必ず亡ぼす」とあります。「その日」は、神が歴史に直接的に介入する特別な日。エルサレムを包囲するあらゆる敵から解放されたとき、神は「憐れみと祈りの霊」を注ぎます。「憐れみと祈りの霊」を注がれた民は、神から遠く離れていた自分たちに気づき、真心からの悔い改めに導かれ、大きな嘆きに包まれる。そこで、神は民のために「罪と汚れを洗い聖める一つの泉」を開くことになります。

     ルカ福音書第9章20節で、イエスの問いに対して、ペトロは「神からのメシアです」と答えます。この時点でのペトロは、当時、ユダヤ人の多くが期待していたように、イスラエルを復興させる政治的な王としての「メシア」を考えているかもしれません。そこで、イエスは誤解が広がるのを防ぐために、まず「だれにも話さないように」と沈黙を命じます。なぜなら、神からのメシアは必ず苦しみを受け、排斥され、殺され、復活することになっているからです。

     主イエスご自身は、キリストという言葉を避けて「人の子」としての、ご自分について語れる。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ……」。苦しみを受け、捨てられ、殺され、そして3日目に甦る。「よみがえる」と訳されている言葉は、原文に即して言えば、よみがえさせる、と受け身で訳してよい言葉です。苦しみを受けるというのも、受け身です。すべて受け身で語られる。苦しめられ、捨てられ、殺され、甦らされる。自分で何かをすると言われたのではない。自分に何が起こるかを語られたのです。人は苦しめ、捨て、殺します。そのイエスを神が甦らせる。ご自分が何をするかではない。「神のキリスト」、この「神の」は何かを、主イエスは、このように受け止めておられる。自分を甦らせる「神の」キリストです。

     分水嶺に立って見えるもの、そこに立つ主イエスが、見ておられるものはこれです。主イエスをこのように扱うことによって、人間の真実の姿が表れる。主イエスの正体が明らかになるところで人間の正体が明らかになる。自分たちがバプテスマのヨハネと呼び、エリヤと呼び、キリストとさえ呼んだ者を捨てる。ペトロも同罪でした。「神のキリスト」を捨てる。

     ところで、主イエスは、ここ22節で、この対話を終えてはおられません。23節以下にこのような主の言葉が記されています。「わたしについて来たい者は、自分の十字架を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」。特に、ルカは、このみ言葉は「皆」に語られたと言います。おそらく、弟子たちだけではなくて、これを書いている、これを読むすべての者、私たちすべてに、主イエスは、語りかけているという思いを込めていると思います。主イエスは、ここで、あなたも十字架を負えと言われる。わたしのために自分のいのちを捨てなさいと言われる。

     明らかに、このルカによる福音書が書かれた頃、すでに、教会の人びとが経験していた殉教の死がここで示唆されているのかもしれません。もっと神さまのために、いのちがけで働きなさいと催促される。どうしたらいいのか。

     ルカが伝えている主イエスの言葉は、英雄の生活を促すのではなりません。普通の人の生活です。ルカは、25節には、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を亡ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」との主の言葉を伝えます。これは、皆によくわかる。自分を失ってしまっては大損です。自分を失わないで生きるとはどういうことか。十字架を負うことだというのです。十字架を負う。それならばそれは完全に自分をなくしてしまうことでしょうか。そうではないのです。主イエスが教えてくださった愛に生きること、そこにこそ、私たちは真実の自分を見出すのです。「わたしと、わたしの言葉を恥じる者」と主は言われます。主イエスの言葉を恥じるのではない。それどころかこれを最も大切なものとする。この主イエスを愛し抜く。ペトロの手紙一の第1章8節の言葉でいえば、「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」。これを愛して、まだ見てはいないけれども、喜びにあふれた、言いあらわすことのできない喜びにあふれた光栄に満ちている。主イエスが、「あなたがたは、わたしをだれと思うか」と問われる時に、私たちには、本当に神の救いの道が見えてくる、そのような確かな所に立って歩み始めることができるのです。お祈りをいたします。