カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 主における確かさ

    2019年3月31日
    創世記15:5~12、17~21、ルカ9:28~36
    関 伸子牧師 

     今朝は、ルカによる福音書第9章28節以下のみ言葉を与えられています。32節に、「栄光に輝くイエス」とありますが、これは原文のギリシア語では、もっと単純に、「彼の栄光」とだけ書いてあります。ある聖書の学者は、彼の栄光となぜ書くかというと、この栄光はイエスご自身の中から現れてくるもの、という意味があるからだと言っています。イエスご自身の光が、ここに見えるのです。

     これは主イエスの地上のご生涯、30年とも、34年とも言われる地上の人としてのご生涯において、その中で、ただ一度の明るい輝きを見せた出来事でした。これを主イエスの「山上の変貌」と呼ぶことがあります。教会の画家たちが、喜んで描いてきた出来事です。イタリアのバチカンにいくつもの、その作品があるラファエロのものです。ちょうど絵の真ん中ぐらいというか、その少し上のあたりに、三人の弟子の姿が描かれています。3人とも眠っています。眠っているというよりも眠りから覚めた瞬間を描いているだろうかと思われる。それが、このルカによる福音書が、32節に「ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると」と書いていることによる。これは、マタイにも、マルコにも出てこない。ラファエロが、この点をどのように考えたのか私は知りませんけれども、聖書学者たちは、ルカのこの記述は、主イエスの山上の変貌が、夜の物語であることを示すと言います。

     夜は、私たちの生活にとって、いろいろな意味を持っています。楽しい夜を考える人もあるかもしれませんけれども、夜になると、つらいと思う人もあるだろうと思います。これもまた、ある人が指摘していることですが、特に、当時の人びとにとって、夜は、しばしば神に逆らう力が最も活躍する時であると考えられた。山もまた、神に背く力が澄んでいるところと、しばしば考えられた。主イエスは、その夜の山に、ご自分の愛するペトロ、ヨハネ、ヤコブという3人の弟子を連れて登って行かれた。そこで、深い夜を経験されたのです。まばゆい光を見せられたのです。

     ルカによる福音書が、山上の変貌の物語を夜の物語とし、イエスと3人の弟子たちの祈りの物語として語り始めた時に、そこで考えていたに違いないのは、これと同じような夜の祈りの時を、主イエスが再び迎えられるということです。

     主イエスは山に祈るために行かれる。主の変容は「祈っておられるうちに」(29節)起こる。主の宣教は神の意志のうちに支えられていたのです。山の上で、栄光に包まれたモーセとエリヤ、そして栄光に輝くイエスを弟子たちは見ました。

     「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」(29節)。この栄光の主イエスの姿は、復活の先取りなのです。モーセとエリヤは、律法と預言者の代表、つまり旧約聖書の証しの代表にほかなりません。全旧約聖書が、このイエス・キリストの栄光につながるのです。栄光の中において主イエスと一緒に話をしていた。何を話していたかを書いているのもルカだけです。ルカが、「イエスがエルサレムで逃げようとしておられる最後について話していた」、と書いています。この「最後のこと」という言葉は、もとのギリシア語で言うと、エクソドスという言葉です。エクソドス、英語で発音するとエクソダスですが、「脱出」を意味する。「出ていく」、という意味があるのです。英語でエクソダスと言えば、出エジプト記のことです。ユダヤの人たちが、あのエジプトの苦境から逃げ出すことができた、あのことを意味します。けれども、この言葉は、ただ単に外に出て行く、逃げていくという意味だけではなく、この世から出ていく、つまり、死ぬことをも意味することになります。死の闇の中で、主イエスは死について語られた。そこで初めて、この主イエスの死は〈出エジプト〉になる。本当の奴隷状態からの解放を意味するようになる。闇から光の中へ歩き始めることができる。

     先ほど、創世記第15章のみ言葉をお読みしました。アブラムは神の指示を受け、ハランを発ち、カナンの地に入りますが、その旅は順風満帆ではありません。飢饉にぶつかり、甥ロトとの不和に苦しみ、外敵の襲撃にも機敏に対処しなければなりません。しかも、彼の心に常に重くのしかかる不安は、このまま子宝に恵まれずに、跡継ぎもなく、「大いなる国民」という約束も実現せずに終わるのではないかという危惧だったのです。アブラムに子孫と土地を与えると約束し、契約を結んだ神は、みずから2つに裂いた動物の間を通り過ぎて、契約遵守を誓いました。そのとき、アブラムは「深い眠り」に陥っており、神に対して果たすべき義務も一切背負っていません。神と人との契約はシナイ契約のように人の義務が表現されることもありますが、人との関わりを大事にする神の思いから生じる約束なのです。

    イエスが二人の人、モーセとエリヤと語り合っているのを目の当たりにしたペトロは、2人の人が立ち去ろうとしたとき、「仮小屋を3つ建てましょう」と提案します。彼はまだ「出発」がもつ栄光を悟っていません。そのようなペトロに対して、雲の中から神の声が響きます。

     雲の中からの声が響いた時、そこには主イエスだけがおられた。恐らく栄光の輝きは過ぎ去って、もとのままの主イエスがほこりにまみれた足と、黄ばんだ衣服と、汚れた顔でそこに立っておられたのである。私たちの目に見えるものは、この主イエスだけである。私たちを救うために、私たちよりもしっかりとこの世の現実の中に立ち、そこで戦い、そこで勝利してくださる、この方の中に、この世界に対して最終的な責任を取ろうとされる神の姿を見る。「これに聞け」という指示は、ここに仮小屋を建てて立ち止まらずに、エルサレムに向かうイエスの後に従って行きなさい、という招きです。教会もまた「これはわたしの子、選ばれた者」と呼ばれる者たちである。だから、この方に聞き、この方に従い、この方と共に生きるのです。お祈りをいたします。