カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • やみを見る目

    2019年4月14日
    イザヤ書8:16~23、ルカによる福音書22:47~53
    関 伸子牧師 

     ルカによる福音書第22節は、39節から46節までに、〈ゲッセマネの祈り〉と呼ばれる主イエスの祈りを記しています。主イエスが、最後の戦いの祈りをなさったそのとき、最後に40節に、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われました。

     「誘惑に落ちらないように」という、このみ言葉、これは、ここに記されているギリシア語の原文の意味をもう少し汲めば、あなたがたが誘惑の中に自分で入って行かないように、という意味です。自分の方に誘惑に負ける思いがある。それと戦っていなければいけない。そのために、どうしたらいいのでしょうか。祈るのです。このところの原文の意味は、「立ち上る」ということです。このルカの伝える「立って祈れ」という主の言葉は、「わたしの甦りのいのちの中に立って祈りなさい、そうすれば誘惑と戦うことができる」と言われたのだと読むことがあるのです。私たちを立たせるために、立って天のいのちに向かい、そこで祈り、生きることができるようにしてくださるために、主は死を前にして、ひたすらひざまずいておられるのです。

     ところで、47節の最初に、「まだ話しておられると」という言葉があります。まだ主イエスは語っておられました。弟子たちに対して、誘惑に陥らないように起きていなさいと言われました。「誘惑」は、〈こころみ〉、あるいは、〈攻撃〉と訳している翻訳もあります。攻撃が今、始まろうとしている。いったい、その戦いとは何でしょう。「12人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻しようと近づいた」。何となくよそよそしい。このユダの主イエスに対して接吻をもって裏切ったということを、なかなか承認できない人びとの心を示すのではないかと思います。

     ユダとは誰なのか。主イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言っておられます。愛が崩れる。裏切るということぐらい、みっともないことはありません。しかし、それがここで起こっています。しかも、愛の行為の姿をもって裏切りは現れるのです。主イエスはご自身が、そのような恐ろしい人間の行為によって、今殺されようとしていることを、明確に見据えておられるのです。

     53節の終わりに、「だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」という言葉があります。これはルカによる福音書だけが伝える主イエスの言葉です。そこでその次に何が書かれているかに更に目を留めてみたいと思います。49節以下です。「イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、『主よ、剣で切りつけましょうか』と言った。そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした」。

     ここもおかしな書きかたで、「イエスの周りにいた人々」とは、これは明らかに弟子のことです。けれどもここでは、既に突き放して、そこにいる人々が、イエスの弟子である資格を失ったかのように、ルカは書きます。

     私たちも、恐さの余り棒をふり回して犬を追い払ったりします。うろたえてのことです。ここに恐怖、恐れがあります。しかも、そこにいるのはユダだけではありません。僕だけではなく、群衆がおり、そして52節を見ると、「祭司長、神殿守衛長、長老たち」がいます。そこで主イエスは言われました。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか」。武器を持つ者が、たくさん来ました。戦って勝算があるわけではありません。ただ恐れから剣をふり回してしまう。おそらくすべての人間に共通の最大の弱点もまた、結局は恐れではないでしょうか。

     それ故に、罪もまた、この恐怖と深く関わります。今日の私たちの生活において、恐れからの自由があるかといえば、そうは言えないでしょう。

     このルカによる福音書は、なぜ第22章53節の最後に、「だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」という、み言葉を記したのでしょうか。これを説明して、こう言うことがあります。ルカによる福音書を生んだ当時の教会が、この言葉を自分たちの言葉として、切実に聞いたに違いない。自分たちのために、特に思いを込めて、このみ言葉を記録したというのです。主イエスは、甦られた。主イエスの、み言葉に従って教会は生まれました。しかし、その教会が生き続ける間も、まだローマ帝国は厳然として権力を振るい、迫害に迫害を重ね、闇の支配が続いているとしか言いようがない状況でした。

     教会は、これは闇の支配だとしか言いようがないようなところに、繰り返し追い込まれます。自らの無力を嘆かなければならない時がいくたびもあったのです。今もそうかもしれません。しかし、その嘆きのなかで、私たちは決して絶望しません。パウロは、自分は「途方にくれても行き詰まらない」と言い切りました。コリントの信徒への手紙二第4章8節です。主イエスが、闇の支配をご自分の身に引き受けてくださったからです。ご自分の死をもって、死を既に滅ばしていてくださるからです。闇は、もはや無力だからです。絶望というものがなくなってしまったからです。死のとげはもはやないことを知っているからです。私たちの日々の生活が、この確信、この望みに支えられるものになるように、心から祈り願いましょう。お祈りいたします。