カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

礼拝説教の要旨をご紹介しています

  • 〒184-0011

    東京都小金井市東町2-14-16

    0422-31-1279(電話・FAX)

  • キリストの愛のわざ

    2019年5月5日
    詩編22:23~32、ルカによる福音書24:28~43
    関 伸子牧師 

     キリストの教会は、もう2千年以上、いろいろなことをやってきました。しかし、いつも変わらずしてきたこと、最初からしてきたことは、いま私たちがしている、この礼拝です。教会が出来たときに、重要な働きをした人たちは使徒と呼ばれる者でした。使徒、使い。誰の使いかというと、言うまでもなく神の使いです。このキリストの使いである使徒たちは、一個所に定住しなかった。これが使徒たちのひとつの特色です。このような使徒たちの言葉は、礼拝において語られた。やがて、この目撃者、使徒たちは、次々と死んでいきます。しかし、その後継者たちが使徒たちの言葉を語り継ぐ。

     先ほど読みました詩編第22編の最後にも、語り継ぎ、語りつたえる喜びが語られていました。「子孫は神に仕え 主のことを来たるべき代に語り伝え 成し遂げてくださった恵みの御業を 民の末に告げ知らせるでしょう」(31-32節)。その通りなのです。主をほめたたえながら、語りつたえて生きる喜びが教会をつくっている。聖書は、そこに生まれました。

     今日、私たちが与えられたみ言葉として読みました、この28節から43節までのところには、食事の話が2度出てきます。ここでは、イエスはパンを召し上がっておられます。終わりのところでは、イエスは魚の一切れを召し上がっています。エマオでの食事は、その弟子の家族が、いたかどうかはよくわかりません。画家が描くときには、ふたりの弟子とイエスだけの姿を描いています。エルサレムには弟子たちがいる。それから、私たちが、すっかりなじんできたイエスに従ってきた女性たちが、ここにもいたかもしれません。皆の見守る中で、主イエスは、ひとりで魚を食べて見せておられる。

     30節に、「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」とあります。ここのところが大切です。主イエスが祝福をなさった。パンを祝福するというの、この目の前にある、この肉体を活かすパンを、天とつなげるということです。そのイエスの祝福の言葉を聞き、その姿を見たとき、弟子たちは、あっと思った。祝福する姿に、ついに甦られた主を発見するのです。その感謝の祈りもまた、この主の甦りの力の中で、平安の中でこそ、感謝として意味を持つ。

     ただしかし、使徒たちが、あちらこちらの教会を尋ねて、主イエスの甦りの話をするとき、何度話しても、心のなかに痛みを覚えていたに違いないことがある。37節の終わりに、「亡霊を見ているのだと思った」と書いてあります。「霊」、これをもっとはっきり訳せば、幽霊です。幽霊を見ているのだと思ったというのです。幽霊は怖いものです。なぜ、幽霊を見たと思ってしまったのだろうか。主イエスが、はっきりその理由を説明しておられる。「なぜうろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか」。こう言い換えることができる。あなたがたは、どうして、自分のこころの中だけでぐずぐず考え、疑いを増すだけのことをするのか。これは皆さんにも経験があると思います。私たちが考えることは、迷いを生むだけだということは、特に、死とその彼方に起こることについて考えるときに起こります。私たちの知恵は及ばないのです。疑いと恐れの中から幽霊を見てしまう。

     心に疑いを起こしている弟子たちに、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」(39節)と語りかけられた主イエスの言葉は、神の愛の言葉です。主イエスの甦りの姿を、手と足とを見せながら、示してくださった。 「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」というキリストの愛の言葉は、教会に与えられた言葉でもある。聖霊の働きによって、私たちは、「まさしくわたしだ」と語りかけてくださる主イエスに出会うことを赦されているのです。

     ルカは、更にこう書きました。これは、とても興味のある表現です。41節に「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、『ここに何か食べ物があるか』と言われた」。この「不思議がっているので」という言葉は、びっくりする、驚いてしまうという言葉です。驚く。不可解なものにぶつかる思いです。理解できない。自分のこころや、知恵からはみ出してしまっているものにぶつかった驚きです。ただ、ルカは言うのです。しかし、もうそこに喜びがあった、と。言ってみれば、喜びが大き過ぎて、信じることがまだできなかったのだというのです。

     ある説教者は、この箇所の説教において、ヨハネによる福音書第21章で甦られた主イエスがペトロに「あなたはわたしを愛しているか」と3度お尋ねになった物語にふれて、次のように語る。「ルカは愛については語っていません。愛という言葉は語っていません。けれども、魚一切れを弟子たちの前で一所懸命に食べていてくださるキリストのお姿に、その愛のこころがあり、そのキリストを見守っている弟子たちのこころの中に、主に対する愛が鮮やかに浮かびあがっていることを描いていることは確かであります」。

     これからまた、魚を食べ、毎日の生活を営んで生きる。魚を買って来て食べるとき、感謝の祈りをしながら、その魚を食べる時に、イエスという方は、魚を食べ、パン食べながら生きる私たちと共にあることを思い出したい。そして、やがて私たちが、地上生活を終わるようなときにも、私たちと一緒にいてくださる。教会は、その望みに生き続けたのです。

     48節で主イエスは「あなたがたはこれらのことの証人となる」と言われました。 それは、主の復活を信じることから始まる。魚を食べてくださった主の甦りを信じることから始まるのです。お祈りをいたします。