カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • わたしはいつもそばにいる

    2019年5月12日
    出エジプト16:4~16、ヨハネ6:34~40
    関 伸子牧師 

     「わたしは天から降って来たパンである」(ヨハネ6:35)。これはイエスご自身からしか出てこない言葉です。イエスが増やして、「与えた」パンは、「朽ちる食べ物のためではなく・・・・・・永遠の命に至る食べ物」(27節)を信じさせるためでした。

     第8章24節にこういう言葉があります。「だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば」。心に留めたいのは「『わたしはある』ということ」というこの不思議な表現です。この言葉は同じ章の28節にも、「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ」という文章にも出てきます。

     「わたしはある」と訳されている主イエスの言葉は、ギリシア語ではたったふたつの単語です。「エゴー・エイミー」というのです。「エゴー」という言葉は皆さんがエゴイズムなどとい言葉で使われるので知っておられると思います。「わたし」という意味です。それに「エイミー」という言葉がついている。エイミーというのは「ある」という意味の言葉です。これが主イエスの明確に御自分について語られた言葉のひとつでした。

     この「わたしだ」と言われる方が、ここで「わたしはパンだ」と告げられました。わたしがパンを与えるとか、パンについて思いをめぐらすとか、パンについて議論しようではないかとおっしゃったのではなくて、わたしがあなたがたのいのちを養うパン、わたしそのものを食する者は永遠のいのちに生きると言われたのです。

     自分の肉体がどんなに衰えても、殉教の危険にさらされても、「わたしはいのちのパン」と告げてくださる方が私たちの中におられる。「わたしだ」と言って訪れてくださり、私たちと共に在る。その意味では、この福音書の言葉は信仰の告白の言葉です。

     主イエスは、「わたしが命のパンである」と言われた、この35節から40節でご自分が誰であるかを明かしますけれども、35節ではそれを総括的に述べ、続く36節から40節ではその主張を展開します。

     40節の意味は、内容から見ても構文から見ても、39節を他の言葉で言い表したに過ぎない。「わたしを遣わした方」(39節)を「わたしの父」(40節)と呼び変え、イエスと神との密接な連携を力説する。イエスを見て信じられるのは、その人に神が働いた結果であると言いたくて、神によってわたしに「与えられたすべての者」(39節)と言う。つまり「与えられたすべての者」とは、予定説のように神に救われる者があらかじめ決定されてしまっているというのではない。「子を見て信じる人」(40節)、つまり子を見て信じることができるとすれば、それは人の働きの結果ではなく神のめぐみの結果であるというのである。「失うことなく」(39節)と訳された言葉は、ルカによる福音書第15章のキーワード、アポッリューミである。この言葉は「本来あるべき所から離し、滅びへと向かわせる」の意味である。40節の対応句「永遠の命を持つ」から考えて、神から離されて死へと向かう、の意味であるのは明らかです。

     誰でも人生の途上において「わたしはこれでよいのか」と真剣に自問することがあります。これは人間にとって、ティリッヒが言ったように「根源的欲求不満」であり、大切なことである。その場合、救いを求める熱心が生の欲望充足にとどまらないで、主イエスに出会い、恵みとして信仰を、人生を受け取ることが大切なのです。主イエスは、いつも欲求不満に包まれている人間に対して語りかけます。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(35節)。

     出エジプト記の第16章の1節から36節を読むと、シンの荒れ野で飢えてエジプトの肉鍋が恋しくなり、モーセとアロンに繰り返し不平を言うイスラエルの民の姿が描かれている。旅の途中でなつめやしの多いエリムを通過した後のことゆえ飢えは民を苦しめた。神は民の不平をお聞きになり、天からの賜物としてマナを与えられた。民はこぞって天からのマナを歓迎し、拾い上げて日毎の糧とした。この物語において問題になっているのは食料危機であり、信仰の危機である。飢えた民は何度も不平を言う。詩編第78編24節から25節に記されているように、神は「彼らの上にマナを降らせ、食べさせてくださった。神は天からの穀物をお与えになり、人は力ある方のパンを食べた。神は食べ飽きるほどの糧を送られた」のである。この句はヨハネによる福音書第6章31節の根拠です。神はイスラエルの民をシンの荒れ野でこのように日毎の糧によって養われた。神は人間の飢えを顧みてくださる。神からの賜物は、ただ単に異常な時に与えられるものではなく、日常生活の中で見出すことができる。私たちは謙虚な思いをもって、「我らに日用の糧を与え給え」と祈るのです。信仰生活とは、神が繰り返し日毎に与えてくださる天からの賜物に気づき、感謝する生活なのです。しかし、神の御心は申命記第8章にあるように、人はパンだけで生きるのではなく、神の言葉によって生きるのです。

     私たちは日常生活の中でどんなに小さな事柄にも神の配慮がある事実に感謝したい。天からのマナを贈る神は、その独り子を賜う神です。主イエスは言われます。「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである」47~48節a)。