カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • イエスの言葉は実現する

    2019年5月26日
    列王記8:41~43、ルカ7:1~10
    関 伸子牧師 

     主イエスは山上の説教を終えて、今度は病気を癒すという出来事を彼らに見させるために、カフェルナウムに入って行きます。その時、百人隊長の部下の病をいやす奇跡を行われました。その後、ナインの町に行かれた時、やもめの息子を死より呼び返すという大きな奇跡をなさいました。山上の教えに次いで、2つの大きなみわざを行われたのです。17節を読むと、主イエスのこれらの話はユダヤの全土と周りの地方一帯に広まってゆくことになります。

     百人隊長の部下の病を癒された記事は、ルカによる福音書の他にもマタイによる福音書第8章の5節から13節にあります。ナインのやもめの記事は他の福音書にはなく、ルカによる福音書独特です。百人隊長の記事も、ナインのやもめの記事も、ルカは細部に渡って活き活きと記しており、これらが事実起こった事であることを、読む者に印象づけます。ことに百人隊長の態度の軍人らしく率直であること、また一人息子の葬列に従うナインのやもめを見て主イエスが憐れみ、「もう泣かなくともよい」と言って近寄り、柩に手を触れられるところの描写など、その場面の後を見るがごとくに記されていて好ましく思います。

     並行箇所のマタイ福音書第8章5節から13節では、百人隊長は自らイエスのもとに近づいて病の癒しを懇願しますが、今日のところでは、百人隊長は使いを送り、自分はイエスの前に出ようとしません。最初の使いは「ユダヤ人の長老たち」ですが、彼らは異邦人である百人隊長をたたえ、彼はイエスの癒しを受けるのに「ふさわしい」と主張しています。しかし、イエスが百人隊長の家に近づくと、彼は友達を使いにやって「わたしの方からお伺いするのさえふさわしくない」と伝えます。

     部下の癒しを願いながら、自らはイエスの前に出る資格がないと考える百人隊長は、ちょうど「遠くに立って、目を天に上げようともせず」赦しを願う徴税人の姿を思い起こさせます(18:13)。イエスは「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」と教えました。そのイエスの言葉が出来事となって、百人隊長の前に現れます。主イエスの言う「貧しい人々」とは、百人隊長や徴税人のように、「自分は救いにふさわしくない」と思いながら、ただ神の憐れみを待ち続ける人々のことです。

     百人隊長は使いを通して「ひと言おっしゃってください」と願います。これを直訳すると、「言葉で言ってください」となりますから、イエスの言葉があれば部下は癒されると信じています。ルカ福音書はイエスの前に出ようとしない百人隊長を描くことによって、イエスからの恵みをひたすら待つ信仰を強調しています。

     その真摯な信仰を主イエスは不思議に思って、「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言われたのです。

     先ほど、列王記上第8章の御言葉をお読みしました。紀元前955年頃にソロモンはエルサレム神殿を建立しますが、その際、契約の箱を神殿に安置してから、ソロモンは長い祈りをささげています(列王記上8:12~53)。今日の箇所はその一部です。しかし、列王記はその結びから明確なように、前6世紀の捕囚の時代に書かれており、捕囚の原因を明らかにするために、ソロモン以降の王の歩みを申命記の神学に立って評価しています。しかし、今日のところでは、エルサレムの神殿は「あなたの民イスラエルに属さない異邦人」にとっても祈りの場であるとされています。申命記そのものはイスラエルの救いに集中していると言えますから、異邦人をも視野に入れた今日のところは申命記を超えています。捕囚という現実が人々の視野を広げたのかもしれません。

     「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と、主イエスは言い、異邦人である百人隊長の信仰深さに関心しています。

     ある人が、このところについて、こういうことを言いました。この人の言葉は、その後、この箇所についての解釈のひとつの鍵となりました。「ユダヤ人の長老たちは百人隊長のよい行いを見る。しかし主イエスは百人隊長の信仰を見ておられる」。もちろん、主イエスは、ここにユダヤの人びとが、一般にしばしば見せる、異邦人に対する偏見、軽率も消して、この異邦人を愛し、重んじている姿を喜んでおられたでしょう。しかし、主が驚かれたのは、百人隊長の行為ではなく、その信仰です。

     そして、この百人隊長は今知っている。主イエスという方が、自分が、その権威のもとに立っているよりも遥かに確かな、遥かに大きな神の権威のもとに生きておられることを。それを認めたのだと思います。主イエスが語られる言葉は、その命令の力は、私が部下のいのちを左右する言葉に遥かにまさる力をもって語られている。私ができることは、その主イエスのみ言葉を信じることでしかない。
     
     イエスはすでに、この信仰に驚きの言葉を発せられ、「言っておくが、イスラエルの中でされ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言われました。使いに来た者たちが家に帰ってみると、部下は元気になっていた。イエスのみ言葉が、百人隊長の家を先に訪れていました。初代の教会の人びとが皆この物語を読んだ。自分たちの話として読んだのです。ユダヤ人もギリシア人も、自由人も、奴隷もない。その区別は、ここで吹き飛んでします。使徒パウロが言ったとおりです。。そして、声をそろえて、「主イエスよ、来てください、み言葉を語ってください」と祈り願う。それだけでよいのです。

     主は、ここに真実の信仰を見出され、むしろ驚いておられる。しかも、この驚くべき信仰へと私たちをも招かれる。私たちのなかにこの信仰を求められる。私たちもまた、この主を呼ぶことはできるでしょう。呼ばないわけにはいきません。お祈りをいたします。