カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • しつような求めに応じる神

    2o19年6月9日
    創世記18:20~33、ルカ11:1~13
    関 伸子牧師 

     聖霊降臨に関する記事はルカが使徒言行録第2章1節から42節に記している。それによれば、復活したイエスは弟子たちに「近いうちに聖霊が降る」ことを告げて(1:8)天に昇っていく。それから10日後、ユダヤ教の五旬祭の日に使徒とイエスの母や兄弟たち、イエスに従った女たちが集まって祈っていると、激しい風のような音が聞こえ、天から炎のような舌が一人ひとりの上に分かれて降った。集まって祈っていた信徒たちは聖霊に満たされ、さまざまな国の言葉で語り始めた。ペトロが中心になってイエスの死と復活の意味について語ると多くの人が信じて洗礼を受け、使徒たちのグループに加わった。これが、聖書が語る聖霊降臨の出来事です。

     今日私たちがご一緒に読むルカによる福音書第11章の13節前半に「良い物を与える」という言葉が出てきます。私たちは、神さまにさまざまな願いを述べます。もちろん、「良い物」を求めてのことです。しかし、何が良い贈り物なのでしょうか。主イエスは言われます。天の父が用意していてくださる贈り物、いつでも与えてくださる贈り物、それは、聖霊である、と。今、ここに生きている神の霊です。私たち自身が、それほどの思いで、聖霊を祈り求めているでしょうか。

     ルカによる福音書第11章の1節以下で、イエスが主の祈りを教えてから、しつように祈りことの大切さを教えて、たとえを語っています。2節から4節はイエスが教えた祈りです。この祈りの特徴は「父よ」という単純な呼びかけで始まっている点です。この言葉の背景にはアラム語の「アッバ」があります。この語は「お父さん」といった幼児語の流れを汲んだ表現です。イエスが「アッバ」と神に呼びかけるのは、神を威厳に満ちた存在としてではなく、親しみやすい慈愛に満ちた方とするイエスの考えの反映です。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という死を前にしたイエスの言葉は、日々、神に委ねて生きてきたことの凝縮にほかならない。

     5節から13節では二つのたとえが語られますが、その間の9節では「求め、探し、たたく」ことの重要性が示されています。それを挟んで前のたとえでは、真夜中にパンを求めて友人の家を訪ねる人の「しつようさ」が強調されています(13節)。 明らかにここで、頼まれた友人とは神である。この神が、パン三つを貸して欲しいと熱心に願われて、それをむげに断り続けたならば、厚顔無恥のそしりを受けるという、もはや神ではありえない、というのです。

     結びの言葉は、「あなたがたは悪い者でありながらも」という比較の言葉で始まる。これは、小さいものから始めて大きいものにいたるラビ的思考の一般的な手順ですが、イエスは、こうして、信頼に満ちた祈りの根本的な動機をあきらかに宣言する。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(13節)。天の父は善きお方であり、良い物ばかりでなく、聖霊という大きな賜物をくださる。パウロは、コロサイの人々に、御父の愛は「あなたがたを、キリストと共に生かしてくださり、わたしたちの一切の罪を赦してくださった」(コロサイ2:13)と言う。神の賜物は私たちのかすかな祈りを遥かに超えて与えられる。

     神は、繰り返し御自分との契約を破り、御自分に背いたイスラエルを、見捨てることをなさらず、なおもその神として行動してくださいました。創世記第18章で、アブラハムからの接待を受け、男児の誕生を約束した人々は出発し(16a節)、そのうちの二人がソドムに到着します(19:1)。この間に交わされた主とアブラハムとの対話が先ほどお読みした箇所です。ソドムの町を裁こうとする主に、アブラハムは「正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか」と尋ね、「正しい者を悪い者と同じ目に遭わせる」ことは神の行う正義ではない、と主張します。このように問うアブラハムに、神は「正しい者が50人いるならば、町全部を赦そう」と言って、彼の願いを聞き入れます。それに力を得たアブラハムは「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて・・・・・・」と述べて、必死に神が赦すための条件を緩和してもらおうとして問い続けます。そして彼は、ついに「10人のためにわたしは滅ぼさない」という言葉を手に入れます。神は、繰り返し御自分との契約を破り、御自分に背いたイスラエルを見捨てることをなさらず、なおもその神として行動してくださった。人間同士であるならば、一方が契約を破ったのであるから、他方はもはやその契約に束縛されなくてもいいはずである。しかし神はなおイスラエルの神として、彼らを愛し続けてくださった。それは神が神であるからである。

     そのことは今日のルカによる福音書第11章でもその通りです。確かに熱心に願うことが求められる。恥知らずなほどに、願い続けることが求められる。この神が、私たちの父でいますという事実に支えられて、私たちは願い続けることができる。

     毎晩、『夕べの祈り』という書物を読んで寝ます。その中に、こういう言葉が出てきました。「われらに必要な安息を与えてください。あなたが生きて、本当にわれらの傍らにおられるのだということを経験させてください」。ブルームハルトは、まさに幼な子のように、すべての祈りが凝縮するように祈ります。今しばらく貧乏に苦しまなくてはならなくても、今ここで、この病と闘わなくてはならなくても、その闘いに耐えるこができる。父と呼ぶ神が生きて、すぐそばにいてくださるということさえ確信できればよいのです。そして主イエスは、約束していてくださるのです。「祈り求めるがよい。神は必ず教えてくださる。ご自分が生きておられることを教えてくださる」。その神に向かって「父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。・・・・・・」と祈り続けるのです。「しきりに願う」のです。そこで祈りの生活は、すべて全うされるのだと主は言われるのです。このすばらしい約束の中に、私たちは、心をひとつにして立ち続けたいと願います。お祈りをいたします。