カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 私たちが招かれている

    2019年6月23日
    サムエル下7:4~16、ルカ14:15~24
    関 伸子牧師 

     今日私たちがご一緒に読むルカによる福音書第14章15節からの主イエスのたとえ話は、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」というひとりの人の言葉から始まります。この人は、ファリサイ派の議員の家で行われていた食事の席でこのように語ったのである。しかし、それにしてもなぜ、このようなことを言ったのでしょうか。

     ここで主によって招かれていながらも拒んでしまっているのは、信仰のない人ではない、敬虔な信仰者です。この「盛大な晩餐会」、これがまさに聖書が語り続ける神の国のたとえだと言われています。食卓には、そこでのみ経験し得るくつろぎがあります。自由な思いがあります。解き放たれた喜びがあります。主が、今ここで私たちに与えようとしていてくださる喜びはまさにそのようなものです。神の国の幸いをよく知っているはずの人が、それを信じて、生きようとはしていないのです。重要なのは、この人自身は、「主イエスと一緒にいる」ということです。主イエスと食事を共にしているということです。私たちの礼拝もまた、イエスと一緒にいる食事の席です。礼拝堂に置かれている聖餐卓はこの場所が食事の席であることを示しています。この礼拝という場で、この主イエスの言葉が、読まれ、聞かれるのです。

     主イエスはここで、このような発言を聞いて、「大宴会のたとえ」と呼ばれるたとえ話を始められました。ひとりの主人が大宴会を開き、人々を招くのですけれども、次々に断られてしまう話です。ここでは当時のユダヤの習慣に従って、たとえが語られています。宴席を催すときには、二度の招きがなされる。まず、最初に、少し前に宴会の開催日時を伝え、出欠の返事を聞いておく。その上で、いよいよ準備ができた時点で、もう一度、最初の招きに応えた人たちが招かれる。ここでは、最初の招きはすでになされており、さらに用意が整ったので二度目の招きが発せられる。

     「もう用意ができましたから、おいでください」(17節)と印象深い言葉で招きがなされた。すべて用意は整えられて、僕が送られ、実に丁寧な招きがなされた。しかし、この呼びかけに人々が応えたのではない。皆、次々に断ったのです。畑を買った、牛を買った、妻をもらったと言って、この招きを断ってしまった。

     今日のテキストと深いかかわりにあるのが、13章34節のエルサレムのための嘆きの言葉です。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」。

     痛切な嘆きです。こんなに何度も、何度も招いたのに、あなたがたは応えようとしない。この僕は、招くけれども拒絶されてしまう。「もう用意ができましたから、おいでください」。僕は主人の言づてとしてこのように告げる。文語訳では「来れ、既に備わりたり」とあった。この言葉をもって、礼拝における聖餐の招きの言葉としていた教会もかつてあったと聞く。

     ユダヤ人たちは、この喜びの中に招かれながらも、喜びを共にしようとはしなかった。私たちもまた、この世のことに心を奪われて、神の招きを聞き過ごしていることがどれだけあるでしょうか。畑を買いました、牛を買いました、妻を迎えましたからという言い訳は、私たちにも身に覚えがあるでしょう。目先のことに追われ、神の招きに心を向けることを失っているのはまさに私たちのことです。

     しかし、この話はここで終わらない。さらに続く。この主人は、僕の報告を受けて、怒る。しかし、そこで諦めることはない。宴会をとりやめにはしない。さらに僕にこう命じる。「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい」と。僕はそのとおりにしますが、まだ席がありました。するとこの主人はさらにこう言う。「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」と。

     なぜ、そのようになさったのか。それは、主が父なる神の御心を知っておられたからです。父はなんとかしても招きたい、その神の熱情、御心を知っておられたのです。最後にイエス御自身がお語りになります。「言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」(24節)。この言葉はもはやたとえ話の続きではなく、食卓での主の語りかけである。そして、ここで主は「あなたがたに言っておく」と言われる。言葉が向けられているのは、もはや、最初に喜びの言葉を語った客のひとりではない、あなたがた、ここで御言葉を聞くすべての人が今や呼びかけられている。

     皆、神に招かれている。ひとしく招かれている。神の愛の前においては、プラスの値打ちもマイナスの値打ちもありません。教会にあっては、高いも、低いもありません。特別に障碍があり、妨げがあるから、人びとを押しのけて前に出て行くな、などという人もないのです。まして、知恵ある者として、世において重んぜられる者として、教会でも肩をいからせて威張る者もいない。神の恵みの前にあってはひとつです。本当に報いを求めないで、お互いを、愛をもって受け入れることができるようになります。返礼を受けないで済むということは、神の恵みの中に、真実に深く立っている人間だけが、よく知っていることです。

    最後に使徒パウロが書いたコリント信徒への手紙二第5章20節のみ言葉をお読みします。「神がわたしたちを通して勧めておられるの、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」。お祈りいたします。