カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • わたしたちの力尽きる時に

    2019年6月30日
    詩編91:7-16、ルカ8:40-56   
    関 伸子牧師

     少し前のことになりますが、私が伝道師になった2012年4月から9ヶ月間、東小金井教会でお仕えしていました。10月に、市内にあるカトリック桜町病院の敷地内でKC-NET(小金井にある教会のネットワーク)のバザーが行われて、そこに初めて行きました。この病院は、カトリック司祭戸塚文卿神父が、1927年、貧しい人々のために開設した病院です。結核患者のために開設したナザレト・ハウスが発展した病院で、1939年に現在地に開院しました。師の志はいまも引き継がれ、「私たちはキリストのように人を愛し、病める人、苦しむ人、もっとも弱い人に奉仕します」を病院の理念としています。ここにはホスピスが併設されていて、チャプレンがいます。老人病棟もあり、そこにはがんの患者が多いのです。最近は痛みをとる医療技術が進み、以前ですと、痛みに苦しんだ場合にも、今はあまり痛みを感じなくなっています。こういう医学の技術の進歩が患者を助けているかというと実はそうでない面もあります。今までは、激しい痛みとの戦いに我を忘れていた患者が、痛みがないと、ある意味では余計なことを考えるようになる。自分の病気の思いこと、それに加えて高齢、死の接近の自覚、刻々と近づく死に対する不安におびえる。滅びを恐れるあまりに自殺を求める。まさに力が尽きる。力が尽き、無力の思いが、かえって死を求めるのです。ほんとうは、そこに牧師が必要になります。牧師が語る言葉を求める。そこで、しかし、牧師が何を語り得るか。あなたは信じればいい。そう言って励ますのでしょうか。信じられないと思って闘っている、虚しさのなかでは、死んだほうがいいとさえ思っている人間に、あなたは信じることができると言って、そこに何が生まれて来るのでしょうか。

     ルカによる福音書第8章40節から56節まで、ひとつの物語として語られながら、内容的にはふたつの劇的な事件が描かれています。会堂長ヤイロのひとり娘が死にかけている、いや、もう死んでしまったのに生き返る。そしてそのヤイロの家に急ぐ途中の、主イエスのみ衣のふさにさわって、長い間の病気を癒された女性の話です。

     ふたりとも力尽きています。本当に力尽きてしまって、もう死にたいほどだったと言ってよいでしょう。しかし、このふたりとも、その力尽きた絶望のさなか、なお力をふりしぼって見事な信仰、主イエスに対する信仰に生きて救われたのでしょうか。実際、48節によれば、「イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った』」とあります。「あなたの信仰」、しかし、この女性の信仰とは何だったのでしょう。この女性はどこで信仰を言い表したのでしょうか。どこで、わたしは信じます、あなたを信じます、あなたは生ける神の子キリストですと言ったのでしょうか。44節にこうあります。「この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった」。ルカはこれしか書いていません。他に何も書いていません。なぜさわったかということも書いていません。

     しかも、「女は隔しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し」と47節にあります。誰がさわったのだとイエスが言われた時に、本当に思いがけないことが起こり、恐れにとらえられて、むしろ、とんでもないことをしてしまったという思いだけがあったのです。

     ヤイロの場合も同じです。ヤイロの場合、会堂長でしたけれども、その身分を忘れたようにイエスの足もとにひれ伏してしまいました。自分の家にお出でくださるようにとしきりに願いました。けれどもそこでも、あなたは本当に神の子ですから、キリストですから、私たちを必ず救って頂ける方です、それを信じますと、信仰を言い表しているわけではありません。「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。『お譲さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません』」。

     もしかすると会堂長は、主イエスが、長血の病を癒された女に告げられた「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」という言葉を耳に入れることもできなかったかもしれません。それよりも、わたしの娘が死んでしまったという知らせだけで心が一杯であったかもしれません。会堂長は、その家からの使いに、大丈夫だ、イエスさまがおられるから、わたしは確信を持っているなどとは言わなかったのです。会堂長の反応については何も語られていません。ただ、ヤイロのこころの問いに応えるかのように、あるいはその会堂長の不安を覆い隠すように、主イエスがこう語られただけです。「恐れることはない。ただ信じなさい」。

     まるで会堂長の代わりに主イエスご自身が信仰を言い表しておられるかのようです。これは長血をわずらった女の場合も同じです。女も驚いたでしょう。「あなたの信仰があなたを救った」。わたしの信仰ですって。どこに信仰があったのですか。わたしはただ恐れただけ、苦しかっただけ、そして、この方以外にない、とただとりすがっただけではないですか。どこに自分を救い得るような、自分の信仰と言い得るような、見事なものがあったのでしょうか。力尽きた時に、ただ手を伸ばしただけではないですか。そうです、それだけでした。

     会堂長ヤイロの場合にも同じことが起こっています。自分の信仰ですって。イエスが、「ただ信じなさい」と言ってくださっただけです。恐れるな、心配するなと励ましてくださっただけです。それだけです。私たちにもよくわかります。私たちが力尽きたその先に、私たちの中に信じる力が残っているわけではありません。神を、むしろ、あざ笑うことのほうが自然でしょう。ここまで精一杯やった。もう神も仏もない。そこに、イエスの言葉が投げこまれるのです。そこで、「恐れるな、ただ信じなさい」。そのみ言葉だけが響くのです。

     私は、こういうところを読みますと、信仰は、まさにこちら側のものではないとしみじみ思います。向こう側のことです。神の側から私たちに語りかけてくださって、私たちを引き上げてくださった時にのみ、信仰が生まれる。主イエスは、いつもそうしてくださいます。

     ある牧師が、ここについて説教したときにずいぶん長い物語を書いています。その長い物語は、しかし、簡潔に伝えることができます。自分は、特にこのヤイロの物語は忘れることができない。ちょうど12歳のときに、日本でいうと小学校の6年ぐらいの時に、クラスメートの、ちょうど12歳の娘が突然死んだ。それはわれわれが一緒に遊んでいるところに、突然、鷲のような大きな鳥がさあっと飛んできて、ぱっと自分の友達を引きさらってしまったような出来事であった。忘れることのできない恐ろしい体験であったということです。葬儀の日がきました。一所懸命に練習して賛美歌を歌いました。その時に、淡々と牧師がこのヤイロの娘の物語をしました。聖書の物語を繰り返してくらただけでした。特別な教えをつけくわれたわけでも何でもないのです。ただ言われた。「娘よ、起きなさい」とイエスは言われたと。私たちはなぜイエスさまが自分の友だちが死ぬまえにこのことをおっしゃらなかったのかと訝った。牧師はしかし、イエスはお甦りになったと付け加えたのです。ヤイロの娘はこの時起きたけれども、やがてまた死にました。しかし、その向こうでイエスは甦えられました。甦られた主イエスが、「娘よ、起きなさい」と言われたのです。甦りのいのちを約束してくださいました。そう牧師は告げたのです。自分はまだ12歳だったけれども、そこで死の意味と、その死を越えて生きる甦りの意味がよくわかった。説教えはそのようにして始まっていました。私たちもまた、私たちの力尽きるそのところで、この主イエスのみ言葉に深く捕らえられたいと祈り願います。