カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 天に湧きおこる大きな喜び

    2019年7月7日
    出エジプト記32:7~14、ルカ15:1~10
    関 伸子牧師 

     ルカによる福音書第15章は神さまのあわれみの章と言うことができます。今日の2つのたとえ、「見失った羊」と「無くした銀貨」に続いて父のもとに帰る「放蕩息子」のたとえを記しているからです。父である神は、罪によって失われてしまった人間を深くあわれみ、これを熱心に求め、ついに見出す。

     先ほど、ルカによる福音書第15章のみ言葉に合わせて、出エジプト記第32章の7節から14節をお読みしました。イスラエルの民は、若い雄牛の鋳造にひれ伏し、いけにえをささげて、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ」と叫びました。神はこれを罪として怒りを燃え上がらせました。おそらくアロンの意図は神々を造ることではなく、むしろ、目に見えない、出エジプトを行った神のための台座として雄牛の像を造ったのだと思います。それは神の臨在を示す象徴だった。それでも罪とされたのは、カナンの主神エル(バアル)も雄牛像で表されており、容易に混同される危険があったからです。神は民を「かたくなな民」と評価し、彼らが取った行動に対して「わたしは彼らを滅ぼしつくす」と罰を決意します。しかし、モーセが神の名誉と神の約束に訴えて取り成すと、神は決意をひるがえして、民のとの関わりを続行させます。この神が独り子を十字架に上らせます。

     今日のルカ福音書の主イエスの言葉は、神が私たちの立ち帰りを待っているだけではなく、積極的にそのことを促進しておられることを告げています。使徒パウロが言うように「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれた」のであり(ローマ5:20)、また「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」のである(ローマ8:28)。

     ヨハネ福音書第10章に記されている「良い羊飼い」のたとえはその交流を美しく描いている。羊は牧者の声を聞き分け、牧者は一匹一匹の羊の名前を呼んで自分の羊を連れ出す。そして牧者は先頭に立って羊を草のある原へと導いて行く。外敵に襲われた時には、よい牧者は自分の命さえ投げ出す覚悟を持っている。羊はイエスの「御手の内にある羊」(詩編95:7)であって、イエスは次のように言われる。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」(10:27~28)。これがルカによる福音書で、主イエスによって捜し出され、家に帰った、迷える小羊のたどるべき運命です。

     ところで、今日の箇所には、「一緒に」という言葉が繰り返されます。イエスは罪人を迎えて、彼らと一緒にいる方です。6節と9節、「一緒に喜んでください」。私と一緒に、私と同じ喜びを。そう語りかけています。友人や隣人を喜びへと招く言葉です。9節に「友達や近所の女たちを呼び集めて」とあります。主イエスの床であるならば、主イエスに近い存在であるならば、このイエスの喜びをわかち合うことができる。その思いが鮮やかに語られています。

     これらの主のたとえ話の特色は、羊飼いも、女も、捜すことを一緒にして欲しいと友人には求めていないということにあります。つまり、一緒に苦労してくれた者と一緒に喜んでいるのであって、その労苦を共にしなかった者に対しては、「おまえは一緒に働いてくれなかったから、一緒に捜してくれなかったから招かない」と言ってはいないのです。ひとりで苦労し、ひとりで捜し、ひとりで見つけた。しかし、その発見の喜びをひとり占めにはしません。労苦を分け持ってくれたかどうかを問いません。大事なことは、失われたものが見出されたということです。今、自分は遂にそれを見つけたのだというところに、この発見者の喜びは集中します。そして、おそらくその喜びを分かち合っているところです。そのように主は、私たちに神の愛をわからせてくださる。

     肉親の親は腹を立てて「おまえなんか私の子どもではない」などと怒鳴ることがあります。それがどんなに自分の子どもを悲しませるかを気づかないほどに、怒り狂うと、そう言います。しかし、主イエスの父なる神は、そんなことをおっしゃったことはないのです。「あなたはわたしのもの」、そして私たちはイエスのです。「私たちは神の者」神にとって、私たちを失うことが大きな損失でした。だから、必死になってくださいました。主は来てくださいました。私たちは神のものです。そして、そのことをはっきり確信するとき、互いに、あなたもそうです。あなたも神のものですと言わずにおれなくなるのです。そこに、喜びを、キリストの喜びを自分のものとして生きる、キリストに似た者たちの生き方が生まれてくるのです。そして、そのように生きるとき、私たち自身の値打ちがそこで明らかになってきます。私たちは主の喜びをその値打ちとして生きていく者なのです。お祈りをいたします。