カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 死から甦えらさせてくださる主

    2019年7月21日
    列王記上17:17~24、ルカ7:11~17
    関 伸子牧師

     今朝、ご一緒に読むルカによる福音書第7章の11節から17節では、死んだ一人息子が生き返った後、それを目撃した人々は喜びを「神はその民を心にかけてくださった」(16節)と言います。人々がほめたたえたのは奇跡を行った主イエスではなく、主を通して働く神です。
     しかし、この11節から17節までの記事は、明らかに、ささやかな出来事でした。ひとりの若者が死んでしまった。その死んでしまった若者はやもめの子であった。無名の母です。

     大勢の人びとは、この母親の悲しみのかたわらに立って、ただ一緒に歩くよりほかなかったのです。しかし、この行列の先頭に立つ主イエスは、この福音書の中を確かな足取りで進んでいかれます。神の顧みはここにおける主イエスの姿に凝縮されています。そのことは、13節の「憐れに思い」という言葉に示されています。この言語はスプラングニゾマイ。はらわたを意味する言葉である。単なる心の動きとして勘定だけではなく、それがまさにはらわたを引き裂くような肉体の変化さえ刻むほどの感情ということである。ルカ福音書ではもう一度、放蕩息子のたとえで、「憐れに思い、走り寄って」(15:20)という父の姿を描くときに用いられる。この7章13、14節では、「憐れに思い・・・・・・走り寄って」と記す。

     この主イエスのスプランクニゾマイは、独特の響きを立てている。肢体に触れてはならないという律法の禁止規定を越えて、主イエスは近づいて棺に手を触れるのですけれども、それは神の接近がどれほど真剣なものであるかを語るものである。

     それゆえに、黙々として葬列ではだれも語ることができなかった言葉、「もう泣かなくともよい」を「神からのメシア」(9:20)が語ってくださる。棺の側でそれに触れつつ語ってくださる。行動に先だって、急いで語られたこの言葉は、この若者が甦る前に棺を担いでいる人々を立ち止まらせてしまう。

     この13節ではイエスが「主(キュリオス)」と呼ばれる。「主」とは旧約聖書で民を導く神を意味した。しかも、ここではルカ自身が書く他の文に「主」が現れるので、このキュリオスは「ご主人さま」といった単なる呼びかけではなく、神を意味する表現と言ってよい。神は人の不幸を見過ごしはせず、憐れに思って「泣くな」と声をかけて「近づく」。神がイエスとなって訪れる、訪れる先は、ひとり息子を亡くしたやもめであり、罪深い女であり、最も小さな者である。

     先ほど、ルカによる福音書第7章11節以下のみ言葉と合わせて、列王記上第17章17節から24節をお読みしました。ここに登場する女主人はシドンのサレプタのやもめで、以前にエリヤが行ったパンと油を増やす奇跡を体験した人です。第17章の1節から読んで行くと、激しい干ばつのために、やもめの家に残った食物は底をつき、一握りの小麦粉だけになりました。彼女はそれで食べるものを作り、一人息子と食べて、死を待つだけだと覚悟を決めたとき、エリヤが訪ねて来て、水と食べ物を求めます。彼女がエリヤの言葉に従うと、「主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった」という奇跡につながりました。彼女はこれほどの奇跡を体験していますが、死者の蘇りを考えてはいません。ですから、彼女の一人息子が息を引き取ったとき、再訪したエリヤに「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ・・・・・・」と述べています。しかし、エリヤが一人息子を抱いて階上の部屋の寝台に寝かせ、子どもの上に三度身を重ねて、主に祈ると、子どもは生き返りました。エリヤは子どもを連れて階下に降り、母親に彼を渡します。

     ルカの福音書の第7章でも、主イエスの言葉によって生き返った息子は母親に引き渡されています。主イエスは一人息子を亡くした母親を「見て、憐れに思い、・・・・・・近づいて」棺に手を触れます。「見て、憐れに思い、・・・・・・近づいて」という一連の動作によって示されているように、主イエスが人に抱く憐れみは、近づいてその悲しみや苦しみを取り除いてしまう力に満ちています。

     イエスが息子を蘇えらさせ、母親に返したとき、人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言います。イエスが現わした憐れみは神からの憐れみです。それに気づいた群衆は「神はその民を心にかけてくださった」と神の介入をたたえることになります。一人息子を亡くした母親は泣いていました。言葉にならない叫びをあげる民に対して神は心を向け、そのすぐ近くに来ています。

     私は葬儀を司る時に、必ずこの主イエスの姿を思い浮かべます。私や、教会の者たちが、どんなに深い同情の涙を注いでも、死の悲しみ、その恐れに襲われた人びとの、ほんとうの心を理解することはできないかもしれない。共に悲しみの底に立つことはできないかもしれない。ついに、私はその人のかたわらを通り過ぎる者であるかもしれないのです。しかし、私たちはひとりではない。主イエスがおられる。主イエスのことを語ることができる。主イエスのことを賛美することができる。今その主イエスがここにいてくださる。私の言葉が、その主イエスの恵みを語ることを求めておられる。その主イエスは、おそらくこの時も、弟子たちや群衆の先頭に立って行かれたに違いない。今も、私たちの先頭に立ってくださる。そして柩に手をかけてくださいます。若者よ、立てと言ってくださいます。わたしは甦ったではないか。あなたがたも、この甦りのいのちの約束からはずれる者は誰もいない。恐れるな。ルカが、この短い物語を書き記しながら、どんなに深い喜びを味わっていたことであろうかと思う。そしてそこに、私たちも知る教会の喜びがあるのです。お祈りをいたします。