カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

礼拝説教の要旨をご紹介しています

  • 〒184-0011

    東京都小金井市東町2-14-16

    0422-31-1279(電話・FAX)

  • この人を見ないか

    2019年7月28日
    サムエル記12:5~15、ルカによる福音書7:35~50
    関 伸子牧師

     今日私たちは、東小金井教会の創立から55年経った記念の礼拝をささげています。説教の準備をしながら5年前に発行された50周年記念誌を読み返して、みなさんが書かれた文章から、主イエスが私たちの教会をいかに教会を愛してくださったかということを感じることができました。その神のひとり子イエス・キリストはどのような生涯を送られたかということが、この後に賛美する讃美歌21の280番、「馬槽のなかに」によく言い表されています。4番はこのような歌詞です。「この人をみよ、この人にぞ、こよなき愛はあらわれたる、この人を見よ、この人こそ、人となりたる 生ける神なれ」。

     この人を見よ。この人にこそ、おおきな愛が表れている。愛そのものである主イエスが、今日の新約聖書で、罪の女と言われた人を振り向いて、「この人を見ないか」(44節)とファリサイ派のシモンに言われます。

     ドイツ語のansehenという単語は「じっと見る」という意味の言葉(英語のsee)である。イエスが人を見る目、まなざしで、「じーと見る」ということがこの箇所の中心的テーマとしてあると思います。ここでは、世間的には無視されていた、罪の女が視野に入って来ます。それが、イエスのまなざしなのです。

     ファリサイ派の人が主イエスを食事に招待した。その食卓に主が招かれていることを知り、1人の「罪深い女」と呼ばれる女が登場する。この女が食卓に着かれた主イエスに近づく。女は無名です。「香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」(37b~38節)。

     この女の涙はどういう涙なのでしょう。罪への痛悔の涙でしょうか。それとも、罪赦されたことの喜び、感謝の涙でしょうか。ここでは涙をどんな涙かと限定する必要はないでしょう。この女の涙は、悲しみも喜びも共に入り混じっていた涙であったに違いないのです。

     「神を信じることのない者は、涙もまた乾く」と牧師・神学者であったルードルフ・ボーレンは何度も、文学のこの言葉を用いたと聞きました。印象深い言葉です。信じることのない者の目は乾いてしまう。泣くことがない。しかし、逆に神を信じる者は、泣くことを知る、涙することを知る。それはなぜか。神を信じる者となったときに、自分の力に依り頼んで生きることを止めるからです。自分一人で生きることはもうないのだと知るからです。この罪深い女も、こらえて生きてきたのでしょう。しかし、主と出会って解放されたのです。

     それにしても、このテキストにおいて、この女は無言です。しかし、無言でありながらも、実は語っています。証しが、ここでは言葉によらず、その行為において、言い換えると、愛においてなされています。この女の行為は、異様とも言えます。この時代、食事をするときは横になって肩肘をついて、もう片方の手で食事をしていました。ファリサイ派の人々と食事をしている主イエスの足もとに近づくのは勇気ある行動です。主イエスは、この女の勇気の奥にあるものまで見抜いておられました。その罪の女に、解放の言葉を告げられたのです。「あなたの信頼が今、あなたを救ったのです!」シモンは、そのことで気分を害していることが伺えます。しかし、大切なことはそれを主が受け入れられたということです。罪ある女を受け入れられ、その涙を受け入れ、その業を赦された愛の大きさ、そして、その愛をもってシモンを招いておられるのです。

     44節、「そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。『この人を見ないか…』」。主は、シモンにこの女を見ることを求めます。しかし、39節には「イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、『この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに』」。とあります。

     香油を塗った女性の行為は、たとえが教えているように、罪を赦された者がその返礼として行う愛の行為です。ですから、47節前半では「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる」と述べられています。

     しかし、この箇所は「彼女の多くの罪は赦された、なぜなら彼女は多く愛したから」と解釈することも可能だと雨宮慧神父はこの箇所を解説して書いています。48節でイエスが「あなたの罪は赦された」と告げていることから考えると、「愛したから赦された」という理解も可能だからです。しかし、ここでの愛は人間の良心から生まれるものではなく、50節に「あなたの信仰があなたを救った」とあるように「信仰」と置き換えることのできる愛です。この女が示した愛は、イエスは赦しを与えることのできる方であると信じる信仰が行わせたものです。赦しは神だけが与えることができると信じるこの女は、イエスに迎え入れられたときにすでに赦されています。

     先ほど、サムエル記下の第12章7節から15節をお読みしました。ダビデがヘト人ウリヤの妻、ベト・シェバとの間に起こした貫通事件を述べる第11章の最後に、聖書は「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」(27節)と書いて、主の介入を語り始めます。主から派遣されたナタンが、「客人をもてなすための小羊を惜しんだ金持ちが、貧しい男のたった一匹の小羊を取り上げ、客人をもてなす」たとえを語ると、ダビデは即座に「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ」と激怒します。第12章7節で、ナタンが「その男はあなただ」と述べたのは、このたとえの金持ちの男とはダビデのことだからです。さらにナタンは、「主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをした」と言って、ダビデの罪を明らかにする主の言葉を告げます。主から罪を告発されたダビデは「わたしは主に罪を犯した」と告白します。罪を犯した相手がウリヤとされずに、「主」とされているのは不思議に思えます。ダビデはウリヤに申し訳ないことをしたと思わないはずがありません。しかし、単なる後悔にすぎなければ、「世の悲しみ」にしかなりません。使徒パウロがコリントの信徒への手紙二第7章の10節で述べるように、申し訳ないという悲しみが「神に応じた悲しみ」、つまり神との関わりの中で罪を悲しむのでなければ、「罪に通じる悔い改め」とはならず、死で終わるからです。そこで、ダビデは「わたしは主に罪を犯した」と告白して、「悔い改めに通じる悔い改め」を表明します。

     シモンへの「この人を見ないか」という呼びかけは私たちへの呼びかけです。ファリサイ派の人の裁きのまなざしは、私たちのまなざしでもあるのです。

     主イエスはシモンに語りかけた後、女に罪の宣言をなさり、最後に派遣の言葉を語られる。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(50節)。女は、平安のうちに、町に帰らされます。主は、ご自分との関わりのなかで、しっかりと支えていてくださる。この関わりが自由をもたらし、自由のなかで自分を保つことができるのです。この自由、それは神にほかならない。この関わりから、信仰が生まれるのです。この関わりのなかへ、私たちも招かれています。生きておられる主として、イエスは赴き、また何度でも訪ねてくださるところで、この関わりを結んでくださる。ファリサイ派の男の家においてさえも、この関わりを結んでくださる。そうなると、ひとつの家がどれほどすばらしい交わりの場所となることでしょう!

     深い闇のなかで、心を静めて、自分たちの罪をじっと見つめる。そこに、いのちの光である主イエスが共にいてくださる。そのことによって、私たちの真実の慰めの時、明るい望みが生まれる時です。この世界を救うのは、このキリストの愛です。そのことを証しする教会がキリストの愛に富んだものであり、みなさんがこれからも、慰めの共同体として、ここで礼拝をささげることができますことを心より願います。お祈りいたします。