カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 後ろを顧みず

    2019年8月11日
    列王記上19:7~21、ルカ9:57-62
    関 伸子牧師

     先ほどお読みしましたルカによる福音書第9章57節から62節の少し前に記されている51節から56節には、預言者エリヤを想起させる表現があります。それは、51節「天に上げられる」(王下2:11)、52節「先に使いの者を出された」(マラキ3:1,23)、54節「降らせて彼らを焼き滅ぼしましょうか」(王下1:10~12)の三つです。エリヤを彷彿とさせる表現を用いたのは、神の支配が今ここに接近していることを表すためです。主イエスがユダヤ人と敵対関係にあるサマリア人の村に入ろうとしたのは、神の支配はすべての人に例外なく宣べ伝えられねばならないからです。彼らからは拒否されますが、イエスは争うとはせず、神の支配を宣べ伝えるために、他の村へ向かいます。

     今日のルカによる福音書第9章57節以下で、道中、三人の人がイエスに従う意志を表明します。ルカはこの場所に、この三つの対話をはっきり書き記すことが、主イエスのご生涯の道を辿るのに最もよいことであると考えたに違いありません。この三人の者たちと主イエスとの対話は、一貫した主題を持っています。それは<従う>ということです。二番目の男に対して、59節に「わたしに従いなさい」と言われたとあります。これが鍵になる言葉です。

     「わたしについて来なさい」。主イエスのほうが断固として服従を求めておられます。それに対する答えとして、初めて私たちの側にも、わたしは断じて主イエスに従うという、断固たる決意が生まれて来ます。この御言葉によって私は神学校の本科生として学ぶように背中を押されました。

     ところで、私たちも弟子です。主イエスの弟子です。今、この礼拝に出席しておられる皆さんのほとんどが、洗礼を受けている方々です。洗礼を受けるということ、これは、その人にとっていろいろな意味での変化を意味しますけれども、何よりも、これまでやったことのない生活をするということです。やったことのない生活とは何か。主に従うということです。これまでも、いろいろなものに従ってきたかもしれませんけれども、ここで断固として、従うべき方を見出したということです。

     カトリック教会では、このように神に召されることを〈召し出し〉と呼びます。面白い言葉です。私たちは、ただ、神の〈召し〉を受けたとか、〈召命〉を受けたと言います。この〈召し出し〉という表現は、日本語としては少し未成熟です。しかし、そのように言わずにおれないところがあります。召されたら、出るのです。わたしの友人である牧師の証しを読んでなるほど、と思いました。それから数年後、わたしも神の召しに応えて、神学校で学び、牧師として神と人にお仕えする道が開かれました。今までいたところから出る。しかも思いがけず、そこに平安があるのです。そのことを実感しています。

     主イエスが、このルカによる福音書が伝えるみ言葉によって語られるもの、従って来なさいと言われたのは、出て来なさいということです。そこに留まるなと言われたのです。出ていく道をはっきり示されたのです。主イエスに呼ばれて出て行くことです。
    最初の人は、無条件に「どこへでも従う」と申し出ます。イエスは「人の子(イエス)」の現実を教え、人の子は宿を拒絶され、安らぐ場所もないと告げます。人の子がそうならば、従う弟子にも同じ境遇に甘んじる覚悟が必要です。

     第二の人に、主は「わたしに従いなさい」と言われました。そのみ言葉を聞いた者が、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言います。ちょうど父が死んだ。その葬儀に行かなければいけない、イエスさま、今しばらくご猶予ください。そう願いました。

     先ほどお読みしました列王記で、「エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ」という主の言葉を受けたエリヤは、牛を使って畑を耕しているエリシャと出会います。エリヤはそのそばを通り過ぎるとき、自分の外套をエリシャに投げかけますが、この象徴的な行動はエリシャを後継者として選んだことを意味します(王下2:13)。それなのに、「わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います」と言うエリシャに答えたエリヤが、「わたしがあなたに何をした」というのは実に奇妙です。

     幾つかの解釈があるようですけれども、ある注解では、エリヤはエリシャを後継者としたいと願って外套を投げかけたけれども、決断しなければならないのはエリシャ自身であることを知らせ、自己決断を迫るために、「わたしがあなたに何をしたというのか」と述べていると言います。いずれにしても、従う者の決断が強調されています。エリシャはこの決断を示すために牛を屠って振る舞います。

     主イエスは、自分が、どこへ行くかをはっきり知っておられました。そこへついて来なさい、と言われるのです。どこへでもついて行くとあなたがたが言ったが、そこで見えていたのは、これほどの深さと広がりを持つものではないでしょう。しかし、ご降誕から始まった主イエスのみわざのなかに現れてくる神の救いの計画は、遥かに大きく、もっと確かで、もっと明るい。今は、葬りをも無視してそこに急ごう。ここでは主イエスは、まさに大急ぎで走っておられるように思われます。

     第三の男に対して、主イエスが言われた言葉を、くどくど説明する必要はもうないと思います。第三の男は、「まず、家族にいとまごいに行かせてください」と言いました。旧約聖書によれば、ある預言者の弟子になろうと思った者が、同じことを言い、許されています。主イエスは、それをよく知っておられたのでしょう。よく知っておられながら、あの時よりも、もっと今は緊急であると言われます。

     「鋤に手をかけてから」と言われました。畑を耕す鋤は、よそ見をすると畝筋が曲がってしまいます。もう働き始めている。主イエスが働いておられる。主イエスが一所懸命に働いておられる。主が手にしておられる鋤に、自分も手を添える。あるいは、自分も鋤を持って主イエスと一緒に働き始めている。そこで、先生、申し訳ありません、父にさようならを言って来るのを忘れたから、母にこれから出かけると言うのを忘れたから、別れの言葉を言いに帰らせてくださいませんか、とお願いする。息子に不意に出て行かれてしまった父や母の悲しみを放っておいてよいのか。そう問えば、その通りであろうと思います。家から出て行く。神の国に生きるために、神の国のために、主イエスのまことに緊急の激しさをよく知る者として、神の国に熱中するのです。そのようにイエスにしっかりと結びつき、イエスが運ぶ神の国にまっすぐに目を向ける者が神の国にふさわしいのです。

     ルカによる福音書は、その主イエスの、熱中して歩み続ける歩みを、ここに書き記しています。そして、この主イエスの歩みを共にする者は誰かと、語りかけます。しかも同時に、この主イエスの歩みは、一方では全うされていることを認めなければなりません。主イエスは、歩み抜かれたところで、その十字架と甦りの喜びの知らせを携えて、今その歩みを続けることを教会に求めておられるのです。私たちには、主イエスの行く先がもうよくわかったのです。そして、そこに、ひとりも残らず、私たちが救われるようにと、私たちを召していてくださいます。私たちを捕らえようとしてくださっています。

     教会が、常に変わらない喜びをもって生き続けて行くことができるように、また今信仰を求めつつある方たちが、この主に従うさいわいを一日も早く悟られますように。お祈りをいたします。