カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 私の隣人とは誰ですか

    2019年8月18日
    申命記30:1~14、ルカ10:25~37
    関 伸子牧師

     ルカによる福音書には、心に残る物語がいくつもあります。その中でも、一度聴いたら忘れられなくなる譬え話が、この朝、与えられている「善いサマリア人」と呼ばれることの多い譬え話です。この「善いサマリア人」の物語が、愛を語っていることは確かです。このたとえ話の真ん中、33節と34節に注目すべきみ言葉があります。半殺しにされて道端にうずくまる不幸な旅人にサマリア人がとった行動を述べる「その人を見て、憐れに思い、近寄って」という言葉です。この「憐れに思う」は、ルカによる福音書に三度、つまり、第7章13節のナインのやもめの一人息子の物語と、今日、私たちが読む第10章33節と第15章20節、そして第15章に記されている放蕩息子の話に用いられていますけれども、いずれの場合も「見る」、「近寄る」(走り寄る)」と一緒です。

     譬え以外でこの動詞は、大変興味深いことに、助けを求めて苦悩するひとに奇跡で応える主イエスの思いを表すときに限られる。その良い例がルカによる福音書第7章の13節、ナインのやもめの一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところで、「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた」と記されています。一人息子の葬りを耐えなければならないやもめを見て、主イエスの抱く思いが「憐れに思う」であったのです。

     ルカによる福音書第10章25節は、律法の専門家が主イエスを試そうとしてこのように問うことから始まります。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。さらにイエスの問いに対して、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」と答えた彼に、主イエスは、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と答えられた。

     しかし、問題はそのとおりに行えない人間の弱さにあるのです。そのとおりに行えるなら、主イエスの十字架は必要ない。私たちは自分を愛するように、自分の隣人を愛することはできない。ただ、神だけを愛していくこともできない。自分の気に入る人は愛せても、そうでない人を愛することはできない。人を愛しているように思っても、結局は自分を愛している。私たちはそういう弱さを持っています。

     主イエスはエルサレムからエリコに下って行く一人の旅人の話をされます。それは聞くものにはなじみ深い地でであったでしょう。エルサレムからエリコへの道、それは今日もイスラエルに残っていますが、曲がりくねった狭い道で、多くの場所で旅人は数メートル先も見通すことのできないほどです。したがってこの道が強盗や追いはぎの隠れ家として知られていたということは驚くようなことではなく、そこでイエスは一人旅の人がそのような者たちの手にかかったという話を聴衆になさったのです。死ぬほど袋叩きにあい、身ぐるみはがされて、この人は瀕死の状態で道ばたに放置されていました。絶望的な状態にあったにもかかわらず、通りかかった三人の人たちはその人に対して異なった態度をとったのです。

     祭司とレビ人は向こう側を通っていた。向こう側とは、自分の側のことである。それに対して、サマリア人は近寄ってきた。それは自分の立場を出る、自分が死ぬ、滅びる、なくなることである。愛は、自分の立場に立てば生まれてこない。

     今日はルカによる福音書第10章の良いサマリア人のたとえに合わせて申命記第30章の1節から14節を読みました。申命記第30章の10節にある「立ち帰る(シェーヴ)」は11節以下には一度も現れないのに、1節から10節には、さまざまな訳で7回も繰り返されています。この段落の中心軸となる6節から8節には、神が「心に割礼を施す」とあります。神が「心に割礼を施す」とき、心の働きを妨げていた覆いが切り取られ、心の本来的な機能が回復されるので、神の「戒めをすべて行うようになる」のです。ですから、戒めを実行させる力は、人間の努力というよりも、神の働きかけにあります。モーセを通して神から与えられた律法は、時代と状況を越えた普遍的な生命をもっています。それを実行さえすれば、命を得ることができます。律法の背後に込められた神の思いを肌で知ることが大切です。

     イエスの返答を聞いた律法の専門家は、「では、わたしの隣人とはだれですか」と問いかけます。このように問うとき、自分の「隣人」の範囲を限定し、その範囲の外にいる人々に対しては関心を持たなくてもよいという発想に落ち込みかねません。そこで、主イエスはたとえを用いて答えます。「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した」(33,34節)。その核となる表現は「見て憐れに思い、近寄る」ということになります。

     サマリア人がしていること、それは僅かなことです。せいぜいデナリオンふたつを取り出して、宿屋の主人に支払っただけです。デナリオンふたつというのは、二日分の給料です。言い換えれば、二日分の生活費のようなものです。もちろん、まだ足りなかった分は、あとで補うと約束しています。しかし、傷ついた者と、いつまでも共にいたわけではない。自分の仕事は続けます。行きずりの者の痛みを、行きずりの小さな愛のわざのなかに置いただけです。このような小さな愛のわざを、ご自分の遥かに大きな愛のわざのなかで、生かされる者のなすべきこととして語ってくださる主の心遣いに深い感謝を覚えます。私たちが、隣り人となるというのは、無理を強いられることではありません。なすべきことを、なし得る限りするのです。私たちのできることでよいのです。この物語を正しく聞き取るために、まさしく幼児になりきって、神の恵みによって生かされる歩みをさせていただきましょう。