カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • あなたは誰を待っているのか

    2019年8月25日
    ゼファニア書3:8-13、ルカ12:35-40
    関 伸子牧師

     今日のルカによる福音書第12章に記されている言葉、これは誰もが聞くべき言葉です。しかし直接、この主の言葉を聞いているのは弟子たちです。この弟子たちは、この後、伝道者となりました。皆それぞれ教会の柱になって生きたのです。いや、もうこの時既に、主イエスによって伝道に遣わされる経験を持った人びとです。

     35節に「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」と記しています。これはとても具体的な姿です。「腰に帯を締める」。「腰に帯を締め」というのは、パレスチナの服装は割合だらっとしているものですので、腰に帯をすると動きやすくなります。聖書の他の表現で言えば、まさに腰引きからげて、自由に、どんな命令にでも応じて動くことができる備えをするということです。この言葉の意味を考えていて、私はふっとまるで赤穂浪士の討ち入り前夜みたいだなどと思ったことがありました。ただ、ここで大事なことは、そのような姿勢を取るのは、自分が攻め込むためではないのです。いよいよ明日は討ち入りだと猛り立つことではないのです。腰に帯をしめ、あかりをともして待つのです。待ち続けているのです。主人がいつ帰って来るか分からないからです。

     しかも、ここで語られている主人は、ほんとうはその家だけの主人ではないのです。すべての者の主です。道行く人たちの主でもあるのです。この主のことを語り告げながら、この主が来られることを待ち続ける自分の姿を示しながら生きる。まず第一に伝道者は、そのような者です。そのように主に仕える、主を待つあかりを高く掲げて、腰に帯をしめて、生き続けるのです。そして、その伝道者を見ている者は、その伝道者を見ている者、その伝道者を重んじている者は、自分もそれを真似するのです。

     36節によれば、この主人は、婚宴から帰ってきます。なぜ、主が、行き先が婚宴であることについて言及されたのか、それはよくわかりません。ただ、さまざまな想像をすることも許されるでしょう。

     たとえば、皆さんが、家族が結婚の祝いに招かれている間の留守をすることにします。両親がどこかの婚礼に招かれています。自分は簡単な食事をしながら、さびしく思う。ましてここでは留守番をしているのは僕たちです。主人だけがはなやかな婚宴の席に招かれ、なぜ自分だけが粗末な食事に我慢しなければいけないのかと思ったり、自分が主人でなくて僕なのだという身分の違いを痛感するかもしれません。ついでのようですが、ここに続く45節には、こういうことが書いてあります。「しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことがあれば…」。

     特にこの頃の婚宴は長く続いたそうです。現在の私たちのようにホテルで2時間、3時間で終わり、帰るということではないのです。38節には、「真夜中に帰っても、夜明けに帰っても」と記されているように、いつ帰ってくるかわからないのです。場合によっては、一晩中あかりを絶やさず、目覚めていなければならないかもしれなかったのです。

     ここに「僕」と訳されている言葉は文字通り奴隷を意味します。主人が奴隷に仕えているのです。主人が奴隷に食卓を用意し、もてなしているのです。このところについて書く人びとがすべて思い起こしていることがあります。それは、文体も思想も、書いている事柄もまるで違うように見えますが、ヨハネによる福音書第13章の記事です。「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。そう書き始めたヨハネ福音書は、最後の食卓を弟子たちと囲んだとき、主イエスがその食事の間に立ち上って、手拭いを取って腰に巻き、弟子たちの足を洗い始められたと書きました。この食卓に着く者の足を洗う行為もまた奴隷だけがしたことです。ルカ福音書もヨハネ福音書も、全く違ったところで、違った言葉で主イエスの姿を書いていながら、この点においては全く共通した主の姿を書き残しているということ、これもまた不思議な恵みのわざです。

     教会が伝道を重んじるのは、この主の言葉を思い起こす時です。伝道者は、自分で自分を重んじるよりも、もっと深く主によって重んじられています。そのように自分が重んじられていることをよく知った時に、そこで耐える道を知り、自分を軽んじるような行為に走ることはなくなるのです。

     主イエスは一度、私たちのところに来てくださいました。十字架におつきになりました。殺されました。神はこの主イエスを甦らせてくださいました。その主イエスが、また来るとおっしゃったのです。主イエスは、だからこそ、私たちに、目を覚まし続けることをお求めになりました。目を覚まし続けて生きる教会を造るように、弟子たちにお求めになりました。いつ主イエスが来られるかわかりません。しかし、私たちは少しも心配しない。目を覚まして、喜びのあかりを掲げて主を待つことができます。この主のみ言葉に従いながら、主のみ言葉を重んじて生きる、それ故に伝道者を重んじ、自らを重んじ、他者を重んじる教会であることをもう一度、神からいただいたものとして受け止め直したいと願っています。お祈りいたします。