カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 神のふところに帰る

    2019年9月1日
    出エジプト記3:1~15、ルカ13:1~9
    関 伸子牧師

     この朝、私たちに与えられているルカによる福音書第13章は、「ちょうどそのとき」という言葉から始まります。ここは第12章の記事にそのまま続くところです。第12章1節以下の主の言葉に一貫していたこと、それは、私たち人間が神に対してどういう態度をとるか、また神が私たちに対してどういう態度をおとりになるか、この神と人とのやりとりと言うか、受け応えと言うか、それが、言ってみれば真剣勝負のような厳しさ、鋭さをもって語られていたということです。「ちょうどそのとき」、まさにその時、審きを語る主イエスの言葉に、ぴったり当てはまるようなニュースが届いたのです。

     「何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた」。ピラト、これはやがて主エイスを裁き、ついに十字架に処刑することになるローマの総督です。この人は、その後、やはり、いささか暴虐な政治を行ったと訴えられて、とうとう失脚するする政治家です。このピラトが、「ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」というニュースが飛び込んで来たのです。言ってみれば、私たちの仲間がエルサレムで殺されたということです。同じユダヤ人と言っても、エルサレムがあるユダヤの地方の人びとと、ガリラヤ湖を中心とするガリラヤの地方の人びととの間には、いつも対立がありました。この時には革命を起こすようなことはしなかったのでしょう。エルサレムの神殿で、犠牲の血を流して、自分たちの罪の贖いのために礼拝をしようとしていたのです。おそらく気を許している時であったでしょう。武器はどこかに置いてきてしまっていたかもしれない。そこをピラトの軍隊が襲って殺してしまったのです。それで、「その人たちの血が彼らの犠牲の血に混ぜられた」といったのです。

     礼拝のさなかに死ぬ。しかも暴力によって殺される。これは災難です。2節の主の言葉にある「災難」は、そのことを意味します。災難が起これば、どうしても、そこにおける神の意志を問いたくなります。

     スイスの神学者・牧師であったカール・バルトが「悔改め」という説教の中で言っていることを思い起こしました。彼はこのように語ります。「イエスは私たちをお招きになります。真理を私たちに告げようとなさいます。神を私たちに告げようとなさるのです。これを聞いて受け入れる者は、悔い改めます。悔改めとは、私たちがいつも見落としている最も近くにあるものへの立ち帰りにほかなりません。神は、私たちの最も近くにいます。神は私たちの中心であります。神はいらっしゃいます」。神はおられる。私たちが思う以上に自然で、単純で、自明なことだと言うのです。

     先ほど、出エジプト記第3章1節から15節をお読みしました。出エジプト記第3章は神の山ホレブでモーセに顕現した神とモーセとの間に交わされた会話を記していますが、その一部である7節から10節は神がモーセに託した使命を明らかにしています。民のエジプト脱出は神の業ですけれども、7節から8節によれば、神自身が民を脱出させることになります。しかし9節から10節によれば、神の関与は間接的であり、民を導きだすのはモーセになります。神とモーセとの共同作業であることには変わりありませんが、強調点は違っています。

     歴史を動かすのは神だけでもないし、人間だけでもありません。両者の共同作業によって動いてゆきます。ピラトによるガリラヤ人虐殺が主イエスに伝えられたとき、主イエスが語った言葉がルカ福音書第13節の2節から5節に記されていますが、2節から3節、4節から5節のどちらも「・・・・・・罪深い者だった(からだ)と思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」という文章で閉じられています。同じ言葉を繰り返すことによって、誰もが悔い改めなければならない罪の中にあることを力説しています。

     続く6節から9節のたとえ話では、いちじくをぶどう園に植えた主人とその管理をゆだねられた園丁の会話を通して、神の忍耐と葛藤が描き出されています。

     「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に行った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか』」。その理由は8節から9節の園丁の答えにあります。「園丁は答えた。『ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください』」。

     主イエスのたとえの重点は裁きの厳しさではなく、ぎりぎりまで待つ忍耐を述べることにあるのだと思います。神の恵みは、一人ひとりに注がれています。そこに立ち返るのです。そこに自分自身を生き切るのです。その時、なお分からないことがあれば、神に問えばよい。神のみ胸を打ちたたいて叫んだらよい。神はいつの日が答えてくださいます。いつの日か呼び戻してくださいます。そして、この神こそ待ち続ける神です。他人事としてではなく、わが事として、ゴールインした者のように安心してではなく、途中にある者らしく主に立ち返って生きる。それはたえざる悔い改めの人生のことです。主に立ち返れば、豊かに実を結ぶのです。この待ち続ける神の恵みの中で、私たちは、悔い改める柔らかな心に生きることを願いたいと思います。
    お祈りいたします。