カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 神の招きを受ける道

    2019年9月8日
    イザヤ書57:14-19、ルカによる福音書14:1-14
    関 伸子牧師

     今日のルカ福音書の場面は、安息日の食事の席、ファリサイ派のある議員の家である。主イエスはファリサイ派の指導者たちのひとりの家に食事に招かれる。おそらく安息日の礼拝が済んだところでしょう。
      
     そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。この水腫を患うということは、当時の人びとの考え方、特に律法学者たちの教えによると、不道徳な生活をした報いだと、そう考えるところがあったようです。そうとすれば、主イエスに対する罠をかけるために、わざとこの男をここに招いたのだと、そう考えないわけにはいかないのかもしれません。

     この人は楽しい食卓の外にいる人です。主は律法の専門家やファリサイ派の人々に言われました。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」。「安息日に人をいやすということは、自由にやってはいけないことなのか」、「安息日にこそ人をいやす自由はあるのではないか」。主はそのように問う。

     それで主は彼に手を置いて癒して、お帰しになった。礼拝の場、それは神の祝福と安息の場にほかなりません。そこには魂の平安と共に、からだの安息も与えられます。したがって、安息日ほどいやしにふさわしい日はないはずです。

     更に7節以下の主の言葉を一緒に読みたいと思います。主イエスはまず、「招かれたとき」に人がとるべき態度を教えて、「招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい」と教えます。最初は末席に座っていて、上席を勧められることになれば、「面目を施すこと」になります。このような知恵は常識的であり、受け入れ易い処世術のひとつだと言えます。しかし、この教えは単なる処世術では終わりません。なぜなら、この教えの結びに「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」とあるからです。高ぶる者を低くし、へりくだる者を高めるのは神です。そうであるなら、「招かれたときは末席に座りなさい」という指示は、神の前での「へりくだり」を教えていると見ることも可能です。

     次に、主イエスは「招くとき」に人がとるべき態度を教えます。主は「お返しができる人を呼んではならない」と命じます。招くべき人々は「お返しができない人」です。そして「お返しができないから、あなたは幸いだ」と主は教えますが、これは私たちには受け入れにくい教えです。人を招いても「お返しを期待するな」というのであれば、何の報いもない、それがなぜ「幸い」なのかと考えてしまいます。

     そこで、主イエスは最後に「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」と言います。お返しのできない人を招いたとき、私たちに報いを与えてくれるのは神です。空の手を神に向けその手を幸いで満たしてもらうために、お返しのできない人を招きます。

     真実に身を低くした時に何が起こるのでしょうか。今まで見えて来なかったものが見えてくるのです。低くなった時、そこで私たちは、たったひとりでいるわけではない。そこに主イエスがおられるからです。

     11節「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と記されています。人間の行動と神の応答とが正反対になることを強調しています。「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ・・・・・・」。キリストと神によるこの連帯を思い起こすとき、私たちも自分を低くすることができるのでしょう。

     先ほど、イザヤ書第57章を読みました。この第57章、特に15節は、ルカ福音書第14章11節の言葉についての、最も適切な、旧約聖書による注解だとされるものです。「わたしは、高く、聖なる所に住み 打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり へりくだる霊の人に命を得させ 打ち砕かれた心の人に命を得させる」。

     聖なる方が、「へりくだる者と共に歩む」のです。主イエス・キリストにおいてです。そして、このイザヤ書は、これに先立つ第53章においては、〈苦しみの僕〉の歌を歌います。主イエスのお姿そっくりの、ひとりの人の姿を描きます。仕え抜き、苦しみの中に立ち続ける者の姿を描きました。それに続いて、このように、神は、身を低くしてへりくだる者と共に住むと語るのです。

     主イエスが「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言われるとき、「この自分の立っている低みに立て」と招いておられます。そこでこそ、神の憐れみの高さ、大きさが見えてくるのです。低くされる者が高くされるのは、この神の慈しみの高さにおいてです。そこで大転換が起こるのです。そこで初めて、水腫の男の苦しみが見えてくる。そうであれば、神の愛を体現している方、主イエスを、罠にかけて抹殺するために、ひとりの男の苦しみを用いるなどという、おおよそ馬鹿げたことをしなくなるのです。

     しかし、私は、このファリサイ派の人の愚かさ、これは決して私たちに無縁なものだとは思えません。私たちは、その正しさにおいて、愛において、自分がいかに上座に座るかということを、いつの間にか願うようになっているのです。そして、人に「ああ、あの人は立派なキリスト者だ」と言われることを、どこかで喜びとするようになるのです。

     主が求めておられるのは、もっと立派な人になることではないのです。むしろ、真実の意味で〈無心〉になることです。そのように上座を求める「私」を殺すことです。主が身をもって示してくださり、その場所を示していてくださる低みに立つことです。出て、どこに立つのか。主イエスの慈しみの中に立つよりほかありません。お祈りをいたします。