カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 富からの自由

    2019年10月6日
    アモス書8:4~7、ルカによる福音書16:1~13
    関 伸子牧師

     先ほどお読みしましたルカによる福音書第16章の1節から13節のたとえ話はルカによる福音書にしかありません。ここでは主イエスが、1節から8節までに「不正な管理人」の話をなさいました。そして、それに続いて、いくつかの富についての言葉が記されています。

     弟子たちは、主イエスに従いなさいと言われて、自分の全財産を置いてついて来た人たちです。〈富〉を捨ててきた人たちです。そのような人たちにとって、富の問題は、もう解決ずみのように思われる。しかし、主イエスは、そうはお考えにならなかったようです。

     具体的に例を挙げるならば、ここで主イエスの言葉を聞いていた人たちの中に、イスカリオテのユダがいました。全財産を捨ててきたからと言っても、イエスを初め弟子たちは、お金がなければ生きていかれない。その財布を全部あずかっていたのが、このユダでした。ヨハネによる福音書第12章6節は、そのユダが、既に中身をごまかしていたと書いています。この男は、ずるい。油断している人の財布を、実に巧みに自分のものにしてしまう。そういう腕のある男だと、人々が言い始めていたに違いありません。考えてみると、不思議なことです。

     そこで併せて、私たちが考えなければならないことは、9節において、主イエスが「不正にまみれた富」とはっきり言っておられることです。主は、富について誘惑を感じておられたのでしょうか。そこには、いつも罪の臭いがする。だからこそ、主イエスはここで、この丁寧な言葉を語っておられるのです。だからこそ、不正な管理人の利口なやり方をほめられたのです。

     今日はルカによる福音書第16章に合わせて、アモス書第8章の言葉を読みました。アモスが痛烈に批判する商人たちは、「安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ」とつぶやいていますから、彼らにとって、安息日はあってほしくない、迷惑な一日です。もっと儲けて豊かになりたいという心がいったん燃え上がると、止めどもなく広がり、ごまかしへとのめり込んでゆきます。まずは良心が痛まない程度にエファ升を小さくして分銅を大きくします。そうすると、確実に儲けが増えますから、それが良心を麻痺させ、利益を増やす別の手段をとるのも怖しくなくなります。

     7日目に仕事をしないのは、天地創造であれ、出エジプトであれ、神が行った業を思い起こして、残りの6日間を神と共に働くためです。6日間の労働を真の労働とするために、7日目に「仕事をしない」ことにします。それを怠れば、利益の誘惑に打ち勝てずに、利益中心に生き始めてしまいます。

     私たちは、地上に生きる限り、罪の臭いのこびりついた富を用いて生きざるを得ません。それでは、どうしてそんなことになってしまったのでしょうか。富も本来、神が与えてくださったものですから聖いものであったはずです。けれども、私たちは、この地上の生活の中で、相変わらず、すぐに罪を犯してしまいますから、私たちの手の中で、それが不正な富に変わってしまうのです。この富は、金銭だけではありません。およそ、私たちに豊かな思いと生活を与えてくれるものは、みな富です。肉体の健康、学歴、履歴、社会において与えられる地位、いずれも不可欠の富、感謝して受け入れるべきものです。すばらしい家庭が与えられていることもまた富です。豊かさです。けれども、学歴を誇って、学歴の無い人を軽んじるとき、それは既に不正の学歴になります。私たちは、いつも、いかなる富においても、それは自分に与えられているものとして感謝して受け取り直し、不正の富から真実の富に帰る戦いをしなければなりません。その鍵は、私たちが真実に神に忠実に、誠実に仕えて、神に信頼していただける者になることです。この子は、わたしがおまえを信頼して委ねた子、この家庭は、わたしがおまえを信頼して委ねた家庭、そう言ってくださる神の声をいつも聞き続け、これを大切にしてゆくということです。それをすることができたとき、私たちは、この不正の富に生きる世において、なお真実の生活を作ることができます。

     そこで、最後のことです。ここで主イエスは、不思議な言葉を使っておられます。それは「小さな事」という10節の言葉です。この言葉は、原文で読むと、更に際立つことですが、最小のことを意味します。とても小さいもとです。この「小さな事」は、すぐに11節で「不正にまみれた富」と言い換えられています。一方では神と相拮抗して、私たちに迫る富ですが、主イエスは、これはとても小さいことと言われます。それに対する「大きな事」とは何か。ここでは必ずしも明らかではありません。しかし、既に、8節では「光の子ら」という言葉が語られました。この光、この光を生み出しているものは、大きなことであるに違いありません。富と神が対立していることから言えば、この「大きな事」は、神に関わる大事なこと、神に直接関わる大事なこと、神から直接始まる大事なことです。

     この光は、主イエスがもたらされた、「神の愛の光」です。あるいは14節以下で語られている言葉で言えば「神の国」です。それらに比べれば富が小さく見えるのです。その小さいものとの関わりにおいて、神に対する真実を貫くことが求められる。まさに、そこで神のみこころに忠実であることが求められます。

     私たちが、この世の富をもって生きて行く生き方は、共に生きる人びとを建てる生き方を生むものです。小さな、貧しい生活の中でも、それができるのです。そのことを私たちは心深く覚えたいと思います。