カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 神の愛の中で生かされる

    2019年11月3日
    歴代誌下36:11~23、ヨハネによる福音書3:13~21
    関 伸子牧師

     「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が独りも滅びないで、永遠の命を得るためである」(16節)。

     この言葉は、宗教改革者ルターが小福音書と呼んだように、聖書のメッセージをよく一言で言い表していて、キリスト者に特に愛されてきた聖句の一つです。以前の口語訳聖書では、「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで永遠の命を得るためである」と訳されていました。みなさんの中にも、この言葉を暗唱されておられる方がたくさんおられるのではないかと思います。あるいはもう一つ前の、文語訳聖書で暗唱しておられる方もあるかも知れません。

     神の愛は非常に大きくて、世に「その独り子をお与えになったほど」(16節)だった。「お与えになる」、これは口語訳で「賜わる」と訳していました。「賜わる」とは、第一に贈物として与えるという意味です。クリスマスに私たちはよくプレゼントを交換します。しかし最大のプレゼントは、神から私たちに賜ったそのひとり子イエスであり、私たちの交換するプレゼントは、そのことを思い起すためです。この神からのプレゼントは、「渇いている人には、命の水の泉から値なしに飲ませよう」(黙示録21:6)と言われたものです。「値なしに」とは、無代価で、ただで、ということですが、しかしそのことは決して安価なものとしてということではなく、むしろ逆に、価がつけられないほどに高価なものであり、その代価に値するものはこの世には何もないので、無償で私たちに提供される神の「高価な恵み」(ボンヘファー)の賜物なのです。

     第二に、「賜わる」とは、死に渡すという意味を持っています。高価な贈物とは、神の側からすれば高価な犠牲を意味しているのです。自分にとって最も価値あるもの、捨て難いものを、相手のためにあえて捨てるところに愛があります。愛とは文字通り身を切ることです。奇跡とは、病人を癒したり、人間の願望を何でもかなえてあげたりすることではなく、身を切るほどまでに、相手のために自分を差し出すところにあり、そのような愛がイエスにおいて示されたということが、もっとも大きな奇跡なのだ、とヨハネは私たちに向かって語り、証ししているのではないでしょうか。

     このみ言葉について、どう説き明かそうかと黙想をしていた時に、この後ご一緒に歌います讃美歌21の451番を作った人のことを思い浮かべました。この賛美歌は英語の賛美歌で、「アメイジング・グレイス」と呼ばれています。この賛美歌を作ったのは英国の牧師ジョン・ニュートンです。彼は6歳で母に死に別れました。このお母さんは深い信仰に生きた人でした。父は船乗りでした。ジョンはその父と争い11歳のときに家を出ました。23歳まで船乗りでした。多く乗った船は奴隷売買の船でした。どんなにひどい仕方で奴隷を運んだか、その手記が残されています。しかし、あるとき、ひどい嵐に遭って、自らの命の危うさを知ったとき、神に対する信仰を回復しました。突然その時信仰を持ったのではないようです。幼くして失った母の信仰が、その心に深く焼き付いていたと言われます。奴隷売買の船に乗っていながらも、中世の修道士トマス・ア・ケンピスの『キリストに倣いて』などを愛読書としていたようです。悩みに悩んでいたに違いありません。23歳で船乗りの仕事を止め、やがて牧師になりました。生まれ変わったのです。

     アメイジング・グレイス(驚くべき恵みよ)、何と甘く美しいことよ。この恵みはわたしのように挫折し滅びようとしている者まで救ってくださる。わたしはかつて失われた者、しかし、今は見つけ出していただいている。かつては目も見えなかった者、しかし、今は見ることができる。これが第一節です。そして第二節にすぐこう言うのです。「わたしに懼(おそ)れを教えてくださったもの、それもまた恵み。そしてその懼れから解き放ってくださったもの、これもまた恵み」と。これはとても深い言葉です。ヨハネによる福音書第3章16節の言葉の意味を実に正確に捕らえています。神はその独り子を与えられなければなりませんでした。私たちを愛するためにそうなさらなければなりませんでした。

     多くの人は16節と17節までを聞いて、18節以下を真剣に受けとめない傾向があります。しかし、これらの御言葉を含む一綴りの段落は、原文のギリシア語においても新共同訳においても、明らかに16節から21節までです。そして、これら全体を見ますと、神の独り子を信じる人と信じない人、すなわち信仰者と不信仰者、光と闇、救いと裁き、愛と憎しみという対立的現実が問題になっていることに、私たちは気づかされます。ここに、救いの反対に裁きがあると語っていますが、それを私たちは、罪に対する罰として不幸や苦難が与えられるのだと考えがちです。しかし、ヨハネ福音書においては、罪に対する罰としての不幸や滅びがあると説いていません。そういう意味ではなく、「光よりも闇の方を愛したこと」が既に裁きであると言っています。「裁く」(17節)と訳されている言葉は、もともと「区別する」という意味の言葉です。世の中は選ぶことの連続です。私たちはいたるところで、さまざまな選別をして生きています。しかし、神が私たちにみ子をお与えになったときには区別されませんでした。19節では、闇の中に捨て置かれ、自ら滅びの道を突き進むのであり、それを引き留める者がいないと言います。

     暗闇ということで、私たちはいったい何を考えるでしょうか。それは、悪しき事件や人物が引き起こす敵対的な勢力を指すだけでなく、神の前に正しく生きようとする信仰者をも突然、暗闇のような試練と絶望が襲うことがあることをも含んでいます。暗闇は私たちの心の中に忍び込んでくることがあります。しかし、たとえそのような暗闇の現実であっても、それを突き抜ける神の圧倒的な愛が、御子の到来によって迫ってきます。

     このことを、私たちはキリスト教の教理として知っているだけでなく、信仰的に体験することが許されています。その一つの証を、翻訳家、また児童文学者である村岡花子の『アンのゆりかご』の中に記録されている生涯の一駒から知ることができます。満7歳になろうとする長男の道雄が当時流行った疫痢にかかって死んだ時の悲しみから、母の花子がヨハネ福音書3章16節の御言葉の深みに触れて、独り子を与える神の愛に捉えられ、希望の光を仰いだ体験です。それが、彼女を北米の家庭文学小説の翻訳家として奮い立たせる決定的な転換点となりました。 独り子イエスを差し出してくださった神の犠牲的な真実の愛に気づき、それを信じ、それに捉えられた花子は、ちょうど太陽の光を受けた月が遠くに浮かぶ地球の暗い部分である夜に向けて反射的に照らすように、家庭文学小説の翻訳によって家庭の親子に愛の光を反射し、勇気を与える役割を担うようになった、と言うことができるでしょう。御子の派遣と誕生による神の愛の迫りは、闇の中にいる自分が明らかにされて、いたたまれない気持ちにされ、チャレンジを受け、古い生き方が滅び、変えられていきます。

     「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」。大切なのは、このみ子を信じることです。神は独り子によって私たちに呼びかけました。「私はあなたを愛している。あなたに存在してほしい。あなたに永遠の命を与えたい」。毎日、このみ言葉によって神のもとに帰ろうと呼びかけられ、そのことが、私たち一人ひとりを生かす、ただひとつの〈いのちの源〉となるように、この言葉を心に刻んで歩みたいと思います。お祈りいたします。