カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 主イエスのまなざしの中で生きる

    2019年11月10日
    創世記12:1~9、ヨハネ8:48~59
    関 伸子牧師

     今日与えられているみ言葉は、ヨハネによる福音書第8章の最後の部分です。これは、第7章の初めから続いている部分がここでようやく終わると読むことができるところです。しかもこの結びは、このような文章で終わります。「すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした」しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた」。

     イエスを殺すと いうことは自分が正しいということを意味し、その自分の義さはイエスを殺さなければ貫かれないような正しさだとわきまえるということです。主イエスを殺した人びと、殺意を抱いた人びとは悪人ではありませんでした。48節に、「ユダヤ人たちが、『あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか』と言い返すと」とあります。これはむしろ当然の正しいことだ。なぜかというと、このイエスという男は、まず第一にサマリア人である。サマリア人はもともと同じ神の国イスラエルに属していましたけれども、長い歴史の中で民族が分裂し、その民族の分裂に信仰の対立が混じり込み、サマリア人とユダヤ人との間に対立が生じました。

     なぜユダヤ人たちが石を最後に取り上げたかという直後のきっかけになったのは58節の主イエスの言葉と思われます。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」。この「わたしはある」という言葉は、仮庵祭が神の民イスラエルのエジプト脱出の出来事でしたが、そのときの指導者になったモーセが神に呼び出された時、神がモーセにお告げになった神ご自身の名前でもあります。モーセが、あなたをいかなる神だと民に紹介したらよいのかと、神にその名を尋ねた時、「わたしはあるという者」という意味の言葉で、主なる神は、ご自分の名をお示しになりました。「わたしはある」と主イエスが言われることは、直ちにユダヤ人に、この主なる神の名を思い起こさせるものでした。自分の目の前にある大工の息子が「わたしは神だ」と言い張ったとき、悪霊に取りつかれたのではないか、われわれの仲間ではないようだ、と判断するのは当然だし、こんな男を生かしておかない方がいいと思うのも当然であると、私たちも考えるのではないでしょうか。

     やがて甦られたイエスを、弟子のひとりトマスがようやく認めた時、「わたしの主、わたしの神よ」と叫びました。そのトマスの信仰の告白をここに思い起こすことができます。イエスこそ神であることを明確に認めることが私たちの信仰です。人びとがこの主イエスの言葉を聞いて、いきり立って石を手にしたということは、まさにその神を、生きた人となっておられる神を殺すことでしかなかったのです。

     今日の48節以下において「栄光」という言葉が重要な役割を果たしています。同じような表現が二箇所に出てきます。ひとつは50節です。「わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる」。そして54節です。「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって」とあります。ここでは主イエスがご自分で栄光を求めないということを断言しておられます。

     その関連でもうひとつ大事な言葉は49節で、「わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない」という言葉です。なぜそう言われたかといえば、悪霊は父なる神を重んじないからです。悪霊に取りつかれているか神の霊に生きているかの唯一のしるしは、神に名誉を帰するかどうかということです。

     そしてもうひとつ、心に留めておきたい言葉は、「その人は決して死ぬことがない」という言葉です。その人は永遠に死を見ることがない、という主イエスの約束の言葉です。「死を見ない」という言葉は、52節のユダヤ人たちの言い換えの言葉「その人は決して死を味わうことがない」という言葉が正確に言い表しているように、死を味わわないということであると言ってもよいと思います。
     主はアブラハムについてお語りになりました。人びとはあっけにとられました。アブラハムと親しそうなことを言い、アブラハムがあなたの日を見た、と言うけれどもアブラハムはとっくに死んでここにいないではないか。それともアブラハムが、何千年も前に彼が地上に生きたときにあなたに遭ったというのか。それにしてはあなたはまだ50歳にもなっていないではないか。どうしてそんなことが可能なのかと問う時に、イエスが先ほどの言葉を言われたのです。「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」。

     主イエスが「わたしはある」と言われるとき、それは主イエスがこの「わたしはある」という者であることを示しています。これは元の言葉では「エゴー・エイミー」という言葉です。ヨハネの福音書には、この「エゴー・エイミー」という言葉を何かと組み合わせてイエスがこの世の救い主であることを示している箇所が7回出てきます。つまり、主が「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」と言われたのは、ご自身が神であり、永遠の存在者であるという宣言だったのです。

     主イエスはこの天地を創造された時にも、アブラハムの時代にも、モーセやイザヤの時代にも、いつの時代も存在しておられた方であり、今、この時も存在して、あなたの傍らにおられます。そして、あなたを無力さや失望から救い出してくださいます。

     この〈まなざし〉の中で私たちも捕らえられている。私たちももう主イエスにお会いしている。アブラハムの時代にアブラハムに会ってくださったイエスは、今ここで私たちに会っていてくださる。私たちも主を仰ぎ見ながら、死を味わうことはないと、平安の内に日々を生きることができるのです。お祈りをいたします。