カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 誰が神の真理を知っているか

    2019年12月1日
    イザヤ52:1~10、ヨハネ7:25~31
    関 伸子牧師

     時は仮庵祭、出エジプト、特に荒野の仮の宿の生活を思い起こしながら、イスラエルの人びと、特にエルサレムの都にある人びとが一週間にわたって仮小屋に住んで、毎日神殿に出かけて行って祭りをしたその時です。その祭りの最中に主イエスが神殿で教えておられる。その姿を見てヨハネによる福音書第7章の25節を読むと、「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない」と記されています。人びとは、この人は殺されるはずの者だということを知っています。しかも誰が殺すのかというと自分たちが歴史を造っていると思い込んでいるような当時の支配者たちです。

     神の恵みの支配というのはまさにメシアによって実現すると当時の人びとは思っていたし、ユダヤ人は、他の人たちは何も知らないだろうけれども、われわれは神の計画を知っていると思っていた。神が何かなさったら、それはわれわれがすぐ見分けることができると思っていた人たちです。そこでその指導者たちが、その宗教的政治的権威をもって、このガリラヤから来たナザレのイエスという男こそメシアだと認めたのではないか、と民衆たちは思った。しかしまた次から次へと問いが起こる。「しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ」。われわれはこの子が生まれたときから知っている。大工の息子として育つ姿を見てきている。われわれと同じ人間ではないか。どこに救い主らしさがあるのか、ということです。

     「すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた」。なぜ大声で叫ばれたのか。たとえば改革者のカルヴァンはここに主イエスの〈怒り〉を読み取っています。そこで何と言われたか。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている」。その通り、わたしはあなたがたによく知られている人間だ。しかしあなたがたの知らないことがある。「わたしは自分勝手に来たのではない」。ここに来たいから来て、語りたいことを語っているのではない。「わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない」。「真実」というのは真理と訳してもよい言葉です。ここでなぜ神をわざわざ「真理」とお呼びになったのか。あなたがたは真理を知らないと言っておられるのです。

     このヨハネ福音書の描き方は不思議で、ここでも「イエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった」と書いています。32節になるとこういうことまで書いている。「祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした」。けれども実際に捕らえたとは書いていない。主イエスは、不思議なことにこれらの人びとの捕らえられる手を擦り抜けるようにして、自由であり続けられる。福音書の記者はこう言う。30節に戻ると、「イエスの時はまだ来ていなかったからである」。この「時」というのは、歴史に何が起こるかというのを定める時です。神が定められた主イエスが捕らえられる時がまだ来ていなかった。

     ユダヤ人たちは主イエスの言葉がさっぱりわかりません。ですから35節の終わりでは「ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか」とまで言いだしました。エルサレムにいる人たちにとってはギリシア人と住んでいる国々というのは外国です。つまりわれわれの全く関係のないことをするつもりなのか、と言ってお終いです。神について無知であるとイエスを殺します。イエスを殺そうと思うものは神を殺します。私たちも日常の生活の中にあって主イエスが語られた言葉を無視していると主イエスを殺すことになる。

     ヨハネによる福音書は第7章におけるこの問答をここまでで終えています。しかも主イエス御自身がここで「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」と言われました。

     しかし、第14章に入って主イエスはこう言われました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」。

     いつものようにトマスが理屈っぽく尋ねる。いったい主はどこへ行かれるのか。その道とは何ですか、どこにあるのですか、と尋ね直すと、主イエスの存在そのものが道であると言われるのです。あなたがたはこの道を通って、わたしと同じ所へ行くことができる。「父の家」にその住まいがある。

     主イエスは甦られた。弟子たちは歓喜に溢れたかというとそうではない。かえって困ってしまい、不安におびえて戸を閉ざして部屋の中にうずくまるようにしていた。しかし主イエスは、心を閉ざしているその壁をも突き抜けるようにして弟子たちに近づいて来て、「平安があるように」、あなたがたに平和があるように、と言われました。

     主イエスは「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(37節)と私たちの渇きを潤してくださることを約束されます。主イエスとの出会いによって、私たちは生きた水を飲むことができるのです。その生きた水とは聖霊である。その聖霊は私たちを「導いて真理をことごとく悟らせる」(16:13)のである。知りたい者が聖霊を受けて、真理を知ることができるのである。その聖霊は生きている水であり、私たちをたえずイエスとの新しい出会いへと導いてくれる。