カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 大きな恵みの事実

    2019年12月29日
    ゼカリヤ書12:9~13:1、ガラテヤ3:23~29
    関 伸子牧師

     2019年が間もなく終わろうとしています。先週はみなさんとクリスマス礼拝をささげ、その後はすぐに新年の準備が始まり気忙しい日々を過ごしています。新しい年への希望を語る者もあれば、将来に対する不安があまりにも多く語られ、私たちは、人間が自分の手で自分の生活を確実なものにすることがどんなに難しいかということを嫌というほど味わいます。31日には紅白を見て、その後、多くの人が神社にお参りに行きます。私たちキリスト者はそういう迷信というべき信心からは自由であるかもしれません。しかし、私たちは、そうした人びとの姿を見て、自分とどこが違うと言えるのでしょうか。残念だ、と言っていいくらいに私たちにも世の中がどうなるか分からないのです。

     それならば信仰さえあれば、どんなごたごたが起こっても自分の心は揺るがないですむのだと簡単に言うことができるでしょうか。たとえば私たちが信仰を語るときに、よくする言葉遣いは「わたしは信仰を持っている」、「あの人は信仰を持っていない」、そういう言い方です。自分が神を信じることができている間は教会に来ている。でも信じることができなくなったら教会に来なくてもいい。

     そのような自分たちの信仰についての言葉遣いを考えながら、今日与えられた聖書の言葉を読み始めると、私たちは意表を突かれる思いがします。ちょっと敏感な思いで読むと、自分は信仰についてこのような書き方ができるだろうかと思う表現を、パウロは用いるのです。

     最初に「信仰が現れる」という言葉が出てきます。しかも実は、ここに使われているギリシア語は「来た」と訳してよい言葉です。信仰が心の中から出てきたのではなくて、外から中に入ってきたのです。いったいこれは何を意味するのでしょうか。このことを正しく理解しようとするとき、学ぶべきもうひとつの大切なことは、26節にある、「キリスト・イエスにある信仰」という言葉です。「にある」と訳されている言葉は、文字どおり言えば、「中に」ということです。これは、外ではなくて、まさしく〈内〉を意味するのです。ここでも、私たちの常識的な信仰理解が試されている思いがします。昨年12月に発行された『聖書協会共同訳』はこのところを「イエス・キリストの真実」と訳しています。

     私たちの信仰が、私たち自身の中ではなくて、キリストの中にある、という表現の持つ不思議さを心に留めたいと思います。信仰はどこにあるかと問われれば、わたしの中にはない、キリスト・イエスの中に、そういうふうにしか言えない。信仰がわたしのところにやって来た、外からやって来た。イエス・キリストの真実が自分を捕らえ、侵入してきてしまった。それがパウロの知っていた信仰、パウロに与えられた信仰なのです。

     ある牧師に、「先生にとって牧師としていちばん嬉しいこと、いちばん生きがいを感じることは何ですか」と尋ねたことがあります。答えはこうでした。牧師として、伝道者として生きることは容易ではないし、つらいこと、苦しいことも多い。けれどもそれをすっかり忘れさせる大きな喜びがある。それは、自分の手で洗礼の水を注ぐときだと言われたのです。洗礼入会式において、皆さんにも起立をしていただいて誓約をしていただくのは、私の名によって洗礼を授けるのではなく、父、子、霊なる神の名において洗礼を施すことを告げるのです。キリストの名においてです。洗礼の水を注ぐ伝道者のさいわいは、まさしく、信仰が外からきてこの受洗者の内に宿ることを体験し得ることにあります。神が生きて働いておられることを最も深く体験することです。

     こうして、神の子とされたキリスト者の間には民族や階級や性による区別がないと断言されます。キリスト者の間に差別がありえないのは、「キリスト・イエスにおいて一つ」だからです。これも直訳すると「キリスト・イエスの中で一つ」となりますが、これは「一つのキリストの体」、すなわちキリスト自身を指していると思われます(コリ一12:13)。
    27節に「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがた」には、もはや「ユダヤ人もギリシア人もなく、・・・・・・男も女もありません」とあります。

     イエス・キリストはしもべとして私たちに仕えてくださった。ご自身のいのちを注いでくださった。キリストが私たちにご馳走してくださるいのちは、イエス・キリスト自身です。それが聖餐の食物の示すところです。そのキリストのご馳走をいただく時に、私たちもお土産を持ってくるのです。私たちも献げ物をするのです。その献げ物のうち、最もすぐれたものは何か。このパウロの言葉を神の前で本当に自分の信仰の言葉として言い表すことです。神よ、本当にそうです、あなたは私たちをあなたのみ子の力によって、あなたの子として受け入れてくださいました。私たちの間には、ユダヤ人とギリシア人の区別も、奴隷と自由人の間の区別も、男と女の間の差別も、あらゆる差別は無くなりました。私たちは皆ひとつです。そのように言うことができるのです。そして、まさにそこで、私たちはそれぞれの賜物、それぞれの個性を生かして、神の子たち、主キリストの兄弟として、生きることができるのです。この大きな恵みを心から感謝したいと思います。お祈りをいたします。