カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 神の愛が心に注がれて

    2020年1月5日
    ホセア書:14:1~8、ローマの信徒への手紙5:1~11
    関 伸子牧師

     本日、2020年最初の主日礼拝において私たちがこの年、教会の標語聖句としたみ言葉が含まれているローマの信徒への手紙の第5章1節から11節までを学びたいと思います。

     私たちは、律法に照らされたとき、神の前に平安を持つことができません。そこから隠れ、恐れざるをえない。しかしその私たちを神は迎えられる。そのことを思うと心の底から喜びがわいてくる。しかし、信仰者の生活は、嵐もあれば、風も吹くのです。私たちは自分の罪にも悩むでしょうし、人の罪にも傷つけられることでしょう。それにもかかわらず自分が救われたことについての喜びがあります。戦いがあればそれに勝ち、罪におびやかされても、救いによって生きる生活です。

     第4章にパウロは、アブラハムのことを語ってきました。アブラハムは「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ」と第4章の18節に記されています。アブラハムが、この地上で、あらゆる望みに逆らって信じた。そこに、ただ神の約束があるだけであった。

     第5章はそこにつながり、パウロは、「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」と語ります。平和を得ている、というのは、思いがけなかったことが与えられたのを、感謝して喜ぶことです。それが、信仰者の生活に、何度も起こってくるのです。

     ただ、喜びが大きいからだけではなくて、自分にできることではなかったからです。そこで、1節にも2節にも、「信仰によって」と言われていることが大切なのです。それともうひとつは、「わたしたちの主イエス・キリストによって」ということです。それは、「義とされたのだから」と同じことです。

     イエス・キリストによって、神の光に照り輝かされる者になるという希望が与えられる。そのようにして、単に将来のことに対して希望が持てるだけでなく、いまの苦難をも喜ぶことができる。なぜなら苦難は忍耐を、忍耐は練達を、そして練達は希望を生み出すからである。

     私たちは、ひとりで耐えるのではない。だからこの忍耐は練られた品格を生む。『聖書協会共同訳』は「練達」を「品格」と訳している。練達が人間の精神的な骨格を形作るということを考えるとうなずける訳である。品格とは、人に備わった正確のようなものだろうか。練られた品格とは、フランシスコ会訳では「試練に磨かれた徳」と訳されている。人の徳に顕れるものであろう。

     神の愛が裏付けになっているのなら、こんなに確実なことはないのです。私たちの今の状態は、ちょうど明け方のようなものであって、朝の太陽の光が注がれ始めている。美しく整理された家にもそうでない家にも、太陽の光は入ってくる。心さえ開いていれば、太陽の光は私たちのところへも入ってくる。私たちは窓を開いて、霊の注ぎを受け取っていくことに努力すべきである。そのとき、キリストにある神の愛が、じんわりと心に注がれる。神の愛が具体的に私のような者にも注がれていることを思い、その神に驚き、その神を喜ぶことが信仰生活である。

     パウロは「信仰によって義とされる」と説く。人は言わば罪の奴隷状態からイエス・キリストによって買い戻されたのだが、それは無償の恵みの行為である。したがって、人が義とされるのは律法のわざを行うことによってではなく、そのようなイエスを信じることによる(ローマ3:28)。

     パウロは「キリストの血のうちにある」(9節)、「御子の命のうちにある」(10節)、そして「神のうちにある」(11節)、そのような自分自身を示す。パウロは、キリストの血のうちにある者、御子の命のうちにある者、神のうちにある者、そのような者として自分自身を語るのである。パウロは、かつて誤った誇りにとらわれていた不自由な状態から、「今や」神の恵みに包まれて、神のうちにあるその者として、自分自身を、「誇らしく喜ぶ」のである。そしてそれが私たちキリスト者という者である、と言うのである。

     このような私たちキリスト者は、神から「和解」を受けたものであると、パウロは言う。和解させる。それは原語からすると「取り換える」「交換する」という意味である。それは、人間と主イエス・キリストとの交換である。神の御子として、その愛を受け、祝福されるべきはキリストであるはずであった。にもかかわらず、その祝福の全てを私たちに与えてくださるのである。改革者ルターが「喜ばしき交換」と言ったように、私たちは「和解」に生きられるのである。

     私たちキリスト者は、ただ信仰の心において、キリストの義を私の義であると言って良い。『聖書協会共同訳』が「キリストの真実」と訳している。とても良訳だと思います。私たちの中には信仰がないけれども、キリストの真実によって私たちをよしとしてくださる神。その神との和解、キリストとの交換を受けた者は、あたかも罪人であったこともないかのように生きることが赦されているのである。この信仰は私たちの心に「驕り」も「卑屈」も生み出しはしない。感謝と喜びに満ちた、まことの「誇り」を生み出すのである。

     私たちの命は、こういう神の恵みのうちに、御子の命のうちにある。ここに神の愛があるのである。こういう私たちは、神の愛が注がれて、神を喜び誇っていきることが可能となるのです。お祈りをいたします。