カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

礼拝説教の要旨をご紹介しています

  • 〒184-0011

    東京都小金井市東町2-14-16

    0422-31-1279(電話・FAX)

  • 神の子であると証しする

    2020年1月12日
    イザヤ49:1~6、ヨハネ1:29~34
    関 伸子牧師

     ヨハネによる福音書では、第1章の1節に、「初めに」という言葉が記されていました。「初めに言があった」。主なる神の創造について語っている創世記もまた、第1章の1節に「初めに」と書き始めました。ヨハネによる福音書が第1章1節に「初めに」と書き始めたとき、この創世記の言葉を意識していたことは明らかです。そして、ちょうど父なる神の天地創造、人類創造に相応する7日目に、地上における主のみわざの最初のひと区切りが記述される。しかもそのひと区切りの最後に何が記されているかと言うと、第2章11節にこうあるのです。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた」。主は完全な姿で栄光を現わし、これを弟子たちが喜んで受け入れたというのです。

     ここで大切な働きをしている洗礼者ヨハネは、ふしぎなことですけれども、第1章35節以降の物語において、自分のふたりの弟子に主を指して「見よ神の小羊」と言い、その主イエスに従うことを進めて後、姿を消してしまいます。この後、ヨハネ福音書において洗礼者ヨハネ自身が登場することはありません。これこそヨハネの務めであった。そしてその務めにおいて最も大切なのは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と主イエスを指し示して叫ぶことでした。

     この「見よ」は、誰に対して呼びかけているのかわからないとわざわざ言う人があります。ヨハネは誰に対してでも呼びかける。「ご覧なさい、ここに世の罪を取り除く神の小羊がおられる」。もっと正確に言えば、「神の小羊」がここに来てくださった。この方こそそれであると、主イエスを指し示すのです。

     この近づいてくださる方は、ヨハネにとってずっと以前からよく知っている方ではなかったのです。26節に「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」とヨハネの言葉が記されています。31節にも33節にも、「わたしはこの方を知らなかった」という言葉が繰り返されます。洗礼者ヨハネも知らなかった、神に知らせていただいた。そのことに驚いています。今はなぜ知っているのか。32節には、ヨハネのこういう言葉が記されています。

      わたしは“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、「“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の小であると証ししたのである。」

     言葉をもって明確に書いてはいませんけれども、この福音書の記事は、明らかにイエスがヨハネのもとで洗礼をお受けになったことを前提としています。孤独な預言者としてヨルダン川のほとりで説教を始めた。荒れ野で、昼間はいる人も夜にはいなくなってしまうようなところで、禁欲に耐えて、しかし、これが神のみ旨だと信じて生きていました。

     「神の小羊」に出会ったヨハネは、自分の歩みを過去にむけて遡ります(29~31節)。イエスこそ彼は「わたしの後から一人の人が来られる」と予告していた人であり、「わたしよりも先におられた」方であることを悟ります。彼は自分の使命を自覚するために、「神の小羊」という信仰による知識から出発し、自分の体験を見つめます。洗礼者ヨハネはイエスが来たことによって自分が来た役割を理解したのです。

     イザヤ書第49章の5節から6節にかけて、「ヤコブを御もとに立ち帰らせ イスラエルを集めるために 母の胎にあったわたしを 御自分の僕として形づくられた神は こう言われる」とありますから、この僕は形づくられたことによって僕とされた者です。また、ヨハネによる福音書第1章の33節に、「わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた」とありますから、洗礼者ヨハネも神の働きかけに基づいてその活動を行っています。呼ばれたり、形づくられたり、語りかけられることによって、人は変えられてゆくからでしょう。

     キリスト者はみな「召された者」、つまり神に呼ばれた者とされています。神の働きかけがキリスト者を誕生させます。使徒パウロは十字架につけられたキリストについて、「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力」と、コリントの信徒への手紙一第1章の23節で述べています。キリスト者の特徴は、人種に代表される人間的な要素にあるのではなく、神に「召された(=呼ばれた)」ということにある、と説いていることになります。

     私たちは修行に修行を重ねて高く昇って初めて主のそばに行くのではない。おぼつかない歩みしかできない私たちのところに、どんなに低いところにいると思っている私たちのところにでも、主イエスのほうから近づいて来てくださる。そして下からしっかりと支えて私たちの罪を取り除き、私たちそのものを父のみもとに運んでくださる。そのさいわいを心から感謝したいと思います。お祈りをいたします。