カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • キリストとまなざしを交わし

    2020年1月19日
    サムエル記上3:1~10、19、ヨハネ1:35~51
    関 伸子牧師

     今日わたしたちに与えられているヨハネによる福音書第1章の35節から51節までにひとつの流れがあると理解したほうがよさそうです。そのひとつの手懸りとなるのは、ここに〈見る〉という意味の言葉が幾つも出てくることです。

     「彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た」とあります。主イエスの言葉通りにしたのです。そのようにして主イエスが泊まっておられるところを見ることができたふたりの弟子のうちのひとりは、シモン・ペトロの兄弟アンデレでしたが、「彼は、まず自分の兄弟シモンに会って」とあります。そこで言いました。「わたしたちはメシアに出会った」とありますが、この「出会った」という言葉も「発見した」、「見出した」という言葉です。そして、その喜びを聞いたシモンがアンデレについて行って主イエスにお目にかかったところで、主イエスに「見つめられる」のです。

     しかも私たちは、福音書記者が〈見る〉ということが私たちの信仰にとってどんなに大事かということを語っているのと同時に、「見ないで信じる者は幸いである」と語ったことをも忘れることはできません。第20章に進むと、既に主イエスがお甦りになっている。しかし、その甦りのイエスを信じることができない人びとがいた。代表的な存在は弟子のトマスであった。主イエスはトマスのいるところにご自身の姿をお示しになって、トマスは喜びに溢れ、信仰に満ちて、「わが主よ、わが神よ」と甦りの主イエスに自分の信仰を言い表したとき、このように告げました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。第20章29節です。このように見ないで信じるということこそ大切なことだと言われた主の言葉を伝えつつ、しかしこの福音書は〈見る〉ということを繰り返し記す。なぜか。

     ひとつは第19章35節、主イエスの十字架の死の出来事の記事です。既に主イエスが死なれた後のことについて記しています。34節にはこうあります。「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た」。それに続いて言う。「それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である」。つまり、主イエスは本当に死なれたのだということを目撃した人がいるというのです。「目撃した者」と訳されている言葉、これが先ほどの「発見した人」という意味です。福音書が記している真理は、このように、見つけた人びとによって伝えられるような歴史の中に起こった事実としての真理であったということを示すのです。

     しかし同時に、第二番目に、今私たちは主イエスの姿を見てもいないし、十字架から流れている血や水を見ていないから、私たちは頭の中で観念的に主イエスの言葉を聞くのかというと、そうではない。ヨハネ福音書によれば、自分たちが目に見えるような形で見ている主イエスをあなたがたは見なくなる。しかし、われわれも肉体を持っておられるイエスを、同じようにそのまま見ていた人びとの中で、イエスがどなたであるかということを〈発見した〉、そのことを告げるというのです。

     登場してこられた主イエスは、「何を求めているのか」、「誰を求めているのか」と、私たちの心の飢えに目を注ぎ、そこから生まれる願いに耳を傾けてくださいます。

     ふたりの答えは興味深いものです。「先生、どこに泊まっておられるのですか」。弟子たちはなぜ泊まっているところを知りたかったのでしょうか。第15章に至って「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」という言葉から始まる、私たちが忘れることが出来ない主イエスの教えが記されている。その4節にこうあります。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」。ここには「つながる」という言葉が立て続けに語られます。その多くのものが、この第1章において「泊まる」と訳されている言葉と同じです。だから第15章のみ言葉も、主がこう言ってくださっていると読むことができる。わたしの中にあなたの存在の憩うところを造りなさい。そうしたら、あなたがたも実を豊かに結ぶ実り多いいのちを生きることができる。わたしもあなたがたの中に泊まるから。

     しかも興味あることに、この物語に生きを吹き込む福音書記者ヨハネは自分が主イエスと出会った時間を決して忘れない。午後4時というのは原文のギリシア語で言うと10時と記されている。ある注解者はこう言います。10の時、指10本で数え尽くす時、満たされた時。主イエスの泊まっておられるところに、わたしたちも泊まろう。救いが成就した。主イエスと共に生きる生活がここに始まった。時間を書き記さないわけにはいかなかった。そしてそこで初めて発見したのは、この方こそメシア–〈油を注がれた者〉–香油を注いで神のみこころに従って神のみわざをするように定められた救い主であると知るのです。発見するのです。小さな、隠されたところに起こった出来事ですけれども、また世界の歴史を揺り動かすような大きな出来事がこのようにしてこの世の中にだんだん根を下ろし、広がるのです。

     先ほど、サムエル記第3章1節からのみ言葉をお読みしました。幼いサムエルは、最初は主からの呼びかけに戸惑い、エリが彼を呼んだと思った。結局はエリの忠告に従うことで、主の声に気づき、聞く用意をする。「どうぞお話しください。僕は聞いております」10節)。

     私たちを選び、私たちの真実の羊飼いとなってくださっている主イエスの父なる神が、「お前たちは人間であり、わたしはお前たちの神である」と言ってくださっているこの言葉に聞き続け、そしてこのことを明らかにしてくださった主イエスの恵みの現実を見続けて生きたいと心から願います。お祈りをいたします。