カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 主の御手の中で

    2020年1月26日
    イザヤ書62:1~5、ヨハネ2:1~11
    関 伸子牧師

     人生の喜びの中で、婚礼の喜びは、ひときわ際立った喜びです。この喜びに始まる婚礼の比喩を用いて、神と神の選びの民イスラエルとの関係を語ることは、旧約聖書でしばしば繰り返されてきたことです。それは、喜ばしい婚礼に始まる長い結婚生活が、必ずしも喜びばかりではなく、しばしば苦悩に満ちたものになることを知っている私たちには、なかなか意味深いものです。

     私たちの結婚生活の喜びが夫と妻の双方の愛に基づいているように、結婚生活の苦悩も、夫と妻の双方に責任があります。しかし、神と神に選ばれた民イスラエルとの関係は、そうではありませんでした。神はイスラエルを生み、育て、愛して、夫としての真実の愛を尽くしたのに、イスラエルは神の律法を守らず、神に繰り返し背いたのでした。

     この旧約の民イスラエルの罪をあらわにした律法の象徴が、今日のテキストに出てくる水がめです。6節によれば、主イエスは「ユダヤ人が清めに用いる」石の水がめ6つを水で満たすように命じた。6という数字がすでに、完全数7に一つ足りない、不完全なものであることを示しています。本来は神のために身を清めるはずの水ですが、やがて人間は、自分を神の前に正当化するために清めの水を用いるようになり、神に栄光を帰さず、自分を誇るという罪を犯しました。

     さて、主イエスと弟子たちは主イエスの母マリアと共に、ガリラヤのカナで婚礼に招かれました。それは、主イエスの親戚の質素な婚礼であったのでしょう。

     婚礼の宴会も盛り上がって最高潮のときに、母マリアは、ぶどう酒が足りなくなったのに気づきました。マリアは、「ふどう酒がなくなりました」と、すぐに主イエスに告げました。しかし、イエスは、この世の母と子という関係からではなく、ただ父なる神の御心に聞くことによって、みずから主導権をもって決断なさいます。それゆえ、主イエスは「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と言われました。今日の箇所で理解の難しいところです。

     まず文頭の「婦人よ」ですけれども、この呼びかけがギリシア語の普通の用例から見て、悔蔑や冷淡さを表しはしないのです。この呼びかけは必ずしも母子関係を否定するのではなく、むしろ、マリアの振る舞いにはこまやかな気配りを見たイエスは、マリアのその配慮をたたえて「婦人よ」と呼びかけたと言う解釈があります。

     わたしたちにとってさらに解釈が難しいのは主イエスが続けて言った次の言葉です。「わたしとどんなかかわりがあるのです」。これはヘブライ語独特の言い回しなのだそうですけれども、聖書での用例をつぶさに調べた方が、そのニュアンスは三つに分かれると言えると言っています。

     ここでは、自分の仕事とは思えない仕事を頼まれ、しかも、その仕事が相手にも実行不可能だとわかっている時に、この言い回しが使われれば、「この仕事はわれわれの仕事ではない」と、の意味になる。神に信頼をおく主イエスは、「婦人よ、それは人間であるわれわれの仕事ではない、必要とあれば天の父がそれを備えてくださる」とマリアの心を父なる神へと向けたのです。

     先ほどイザヤ書第62章1節以下の御言葉をお読みしました。1節は「シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず・・・・・・」で始まります。この「わたし」は6節から見て第三イザヤ自身だと思われます。1節は彼の決意表明であり、2節から5節は「あなた=シオン」への語りかけである。今は沈黙していますが、第三イザヤはシオンに救いが燃え上がるまで「わたしは口を閉ざさない」と誓い(1節)、城門に見張りを立て、叫ばせます(6節)。神はそれに答えて、「わたしは黙す」ことなく、必ず報いると宣言します(イザヤ65:6)。第三イザヤが、神が救いに立ち上がるまで、口を閉ざさないと決意したのは、自己中心に生きる人々が生まれ変わるには神の栄光の現われがどうしても必要だからです。

     主イエスの栄光は、本来的には、主イエスの復活の姿、あるいは再臨の姿に現れるのです。しかし、ヨハネによる福音書では、第17章1節、主イエスは十字架を前にして、「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすようになるために、子に栄光を与えてください」と祈っておられます。主イエスが神の独り子であり救い主、メシアであることが明らかになるのは、主イエスが、私たち人間の罪の赦しのために十字架で死なれることによってだからです。それゆえ、この主イエスの十字架の時こそ、主イエスが私たちの救い主であることが明らかになる栄光の時だと、ヨハネによる福音書では語られるのです。

     私たちキリスト者の人生は、いつも愚直で、しかめっ面をしている必要はありません。それどころか、主イエスが私たちの中に来て主人となってくださる人生は、深い喜びに溢れた満ち足りた人生です。どんな小さな喜びも、主イエスが共におられる深い平安に支えられた喜びとなります。どの喜びの時も、主イエスと共に祝う終わりの日の祝宴の先取りとなります。それどころか、私たちの人生の苦難のときも、主イエスがその苦難のただ中にいて、私たちの苦難の重荷を共に担ってくださいますから、苦難のときも恵みの時、平安の時に変えられます。私たちの願いと祈りに応えて、水をぶどう酒に変えることのできる主イエスなのですから、《主イエスよ、私の人生の中にも来てください》と祈りましょう。そして、今、私たちの中にすでに来てくださっている復活の主イエスに、《主よ、感謝します》と言い、私たちもこの主の栄光を見続けていきたいと願います。お祈りをいたします。