カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 熱情の神

    2020年2月2日
    出エジプト記20:1~17、ヨハネによる福音書2:13~25
    関 伸子牧師

     ヨハネは、神殿清めの物語としてよく知られている出来事を主イエスの宣教の終わりの方に位置づけています。過越は解放を祝う祭りです。しかし、主イエスが神殿で見たものは、民を抑圧する者たちの姿でした。この者たちによって、出エジプト記第20章の5節に記されている「熱情の神」に捧げられるべき礼拝が堕落させられている。民はお金を通して神との関係に入るのです。

     先ほど出エジプト記第20章の十戒でよく知られている御言葉をお読みしました。十戒は神の自己紹介の言葉で始まります。この神は民を「エジプトの国、奴隷の家から導き出した神」です(2節)。続く3節で「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と述べ、4~6節では、神の像を造ること、それらにひれ伏すことが厳禁され、「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である」と断ったうえで、神を拒む者への罰と神を愛する者への慈しみが約束されています。

     しかし、7節で「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」と教えるのは、神を利用して、自分の願望を成就しようとするご都合主義を封じるためであるし、8節以下で安息日規定を述べるのは、7日目は仕事をしないことによって、神の業を思い出すためです。神を利用するのではなく、神の指導を待つ時、独善を避けることができます。

     主イエスの頃のエルサレム神殿は柱廊に囲まれていました。柱廊を通り抜ける神域に入ると広い庭に出る。この庭は、異邦人でも入場できたので、「異邦人の庭」と呼ばれていました。14節で「神殿の境内」とか「宮の庭」と訳された区域がそれです。そこでは犠牲用の動物を売る商人もいたし、ローマ通貨を古いイスラエル通貨に替える両替商もいた。神殿税は古いイスラエル通貨で、納められなければならなかったからです。「異邦人の庭」の中央に棚をめぐらした区域があり、そこへの立ち入りはユダヤ人に限られていました。

     主イエスは縄を編んでむちを作り、異邦人の庭である神域から動物を追い出し、商人たちを追放します。主イエスが鳩を売る人々に命じた言葉「このような物はここから運び出せ。父の家を商売の家としてはならない」に注目したい。雨宮彗神父はこの箇所の注解で次のように記す。「この発言の背景には、神の徹底した救いを宣べるゼカリヤ書第14章21節、『その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる』と言う御言葉があります。救いが完成するその日には馬の鈴もなべも聖化される。馬は軍事力の象徴、なべは自治上生活の象徴なのでしょう。人間生活のあらゆる方面が清められ『その日』には神殿から商人がいなくなる」。
    つまり、主イエスの突飛と思える行動は、神殿の世俗化をめぐる認識の相違から引き起こされたというだけではなく、救いの完成を告げる新たな時代の幕開けを宣言するためでもあったと言うのです。ヨハネによる福音書第2章は「宮清め」の前に、「カナの婚宴」を語る。「カナの婚宴」は、主イエスのご臨在によって、上等なぶどう酒が豊かにふるまわれる。終末の宴の先取りであり、メシアの時代の到来を告げる出来事であった。「カナの婚宴」に続く今日の箇所も、同じように新たな時代の幕開けを知らせのである。

     神殿祭儀は、この意味では確かに廃棄されたのです!「イエスの言われる神殿とは御自分の体のことだった」。ヨハネは、主イエス、その十字架と復活こそ、生けるまことの神殿、つまり人が本当に神に出会うことのできる場所だと言っている。

     そしてもうひとつ聴くみ言葉があります。ヨハネによる福音書第14章冒頭の言葉です。第14章は既に過越の祭りが近づいていて、過越の祭りの近くに十字架につけられることが定まっていることを明確に覚悟なさった主イエスが、弟子たちと最後になさった晩餐の席で語られたみ言葉を伝えるところです。そこでお語りになった主イエスの言葉です。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある」。第2章で父の家についてお語りになった主イエスが、ここでもう一度父の家について語ってくださいます。この父の家は明らかに私たちが死んでから行くことのできる父の家です。天にある父なる神のもとに備えられている部屋です。先日天に召された長年の教会の友であったOさんは場所が用意されてそこに居る。満員につきお断りということはない。もし私たちが愛する者と会いたいという願いを持ち続けて、それを神が聞いてくださるならば、それはこの父の家においての出来事となるのだと思います。神は地上において父として拝み敬われることを、み子の血と体とをもって聖所を造り直して可能にしてくださると共に、ここに父なる神と共に生きることができる私たちに、死んでからもなお、わたしの家に憩うことができると約束を与えていてくださる。主イエスが建ててくださる神殿は、そのようなエルサレムの土地や、紀元何年という年を超えた、永遠の次元における確かな家であることが、ここでも明らかになります。だからこそ今私たちも礼拝をしているのです。ここでも神の家の歴史が造られている。私たちが願うことは、私たちの罪がこの父の家にふさわしくない礼拝行為をもって再び汚すことのないようにしたいということです。そのために心して霊を注ぎ、待ち続け、またみ言葉を聴き続ける私たちの営みでありたいと思う。そのためにお互いに助け合う歩みでありたいと願います。私たちの心の中にある、どこかでもう誰かを恨み始めているような、自分の人生をも恨み始めているような恐ろしい罪があるならば、一時も早くそれを取り除いて父なる神に対する深い信頼の中に立ち戻りたいと願います。お祈りをいたします。