カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 真実の存在は語る

    2020年2月9日
    出エジプト記3:11~20、ヨハネ8:21~30
    関 伸子牧師

     ヨハネによる福音書第8章21節で主イエスは、「わたしは去っていく。あなたたちはわたしを探すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」と言われます。「だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」。24節、「だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。・・・・・・あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」。三度繰り返されます。日本でも三つというのは特別な意味を持っている数ですが、ここでも三度預言をしておられるというのは特別に重い意味を持っていると思います。主イエスが三度ご自分の〈十字架の死〉について予告をなさったという記録は、マルコ福音書その他の福音書を読めばすぐに知る、きわめて明瞭なことですけれども、ここではごく短い間に主イエスが、あなたがたは自分の罪に死ぬことになると、三度も警告を発せられたということは余程のことであろうと思います。

     なぜついて来ることができないのか。そこでわたしたちはこう考える。なるほどイエスは神の子であられる。神のところから来られた。わたしたちが行くことができないような天の神のところから来られて、またその父なる神のところへ帰って行かれる。しかしそう思って読んでくると、たとえば第14章の最初から主イエスは、わたしは父のみもとにあなたがたより先に行って、あなたがたが後から来たときに住む場所を備える、そのために行くのだとおっしゃっている。そしてそこで、「わたしは道である」と告げられました。この「道」は天にまで通じる。私たちが主イエスの後をついて行くと天にまで行くことができる。だから喜んで死ぬことができる。

     それではどんな死に方をされるのか。28節にこういうことを語られました。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう」。「人の子」というのは主イエスご自身です。ひとりの人間としてここに生きておられる主イエスを、「あなたがた」が「あげる」。この「あげる」という言葉に福音書が込めている第一の意味は、〈十字架にあげる〉ということです。
     しかし同時に、第二の意味は明らかに、人びととは異なった栄光の座にあげられる、ということです。十字架の中に既に光が宿り、そこに天が見えてきているからこそ、わたしたちは十字架を高く掲げるのです。

     しかし、人の子をあげたとき、つまりあなたがたがわたしを十字架の上にかけて殺したときに、初めてその時「わたしはある」ということが分かる。

     ヨハネによる福音書は第6章にこういう物語を語ってくれていました。第6章16節以下に、弟子たちが夕方になって舟に乗ってティベリウス湖と呼ばれている湖を渡ろうとした。途中で嵐に出遭う。主イエスはその湖の上を渡って弟子たちに近づかれる。かえってその主イエスの姿を見て弟子たちは恐れた。そのとき20節に、「イエスは言われた。『わたしだ。恐れることはない』」。主イエスが「わたしである」と言われることは、もうそれだけでわたしたちとってとても大きな慰めになる。力になる。「わたしである」と言われる方がわたしたちに近づいて来てくださる。わたしたちと一緒にいてくださる。

     今言いましたことと深く結びついていることが、先ほどご一緒に読んだ出エジプト記第3章に記されていました。モーセという男に主なる神が声をおかけになって、あなたの同胞をエジプトの血から救い出せ、と言われた。モーセは直ぐに問い返す。わたしはいったいどんな人間だとお考えなのでしょうか。わたしのような者が乗り込んで行ってそんなことを言っても人びとが言うことを聞くでしょうか。神が言われるのは、わたしが一緒にいるのだから心配するな、ということであった。するとモーセがすぐに畳みかけて言う。それではわたしと一緒にいてくださるあなたは、いったい、いかなる神として人びとに紹介したらいいのでしょうか。そこで第3章の14節で、神は改めて名乗られました。「わたしは存在する」。

     アウグスティヌスは、この箇所についての説教の中で、ここで主イエスが語っておられるみ言葉がわたしたちによく分かるためには、父なる神、子なる神、聖霊なる神が三つにしてひとつであるという私たちの三位一体の信仰・教理について丁寧に説いています。主イエスはここで厳しくわたしたちの罪の代表者であるようなユダヤ人たちを戒められながら、だからこそ、わたしの願いはあなたがたがその罪の中に死なないことだとはっきり告げられる。主イエス・キリストを遣わされた神のみ心とは、わたしたちが救われるということ以外の何ものでもなかった。

     主イエスが最後の晩餐の時、ご自分が十字架につけられることを目前にしてパンと取って、「これはわたしのからだである」と言われました。「わたしがこのパンだ」と言われました。杯を取って「この杯はわたしの血だ」と言われました。「これがわたしだ」と言われました。ここでも「わたしである」、そう宣言してくださった主イエスの言葉がここで響くのです。主イエスご自身がそう約束されました。その主のみ言葉に基づいて、主ご自身そのものであるパンと杯にあずかる、その聖餐を大切にしたいと思います。そしてそのことをもってわたしたちは自らの死に備える。わたしたちはすべてもはや罪人として死ぬことができなくなっている。大きな恵みと言うべきです。お祈りをいたします。