カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 幸いな人とは

    2026年10月18日
    詩編146:1~10、マタイによる福音書5:1~12
    関 伸子_牧師

     主イエスの名声は今やガリラヤだけではなく、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう岸にまで及んでいました。主はガリラヤ中を回って福音を宣べ伝え、人々の病気や患いを癒された。そして大勢の群衆が従いました。この群衆と弟子たちがイエスの最初の説教を聞きます。弟子たちはイエスを囲むように彼と群衆の間にいて、自らの姿勢を通して群衆をイエスのもとへと招きます。その大部分はローマの圧政に苦しめられ、重税に泣く民衆たちでした。その頃戦争はありませんでしたが、ローマに占領されその支配下に置かれているのですから、夢も希望もなかったのです。幸福への夢があったとしても、それはむなしいもので、現実はあきらめの連続の日々でした。主イエスは山に登り、幸福への道をおもむろに語り始めました。

     マタイの「八福」といわれる中心が第一項の「心の貧しい人々は、幸いである」であることは間違いありません。「心の貧しい」とは、単に物質的な富に対して無欲であるというよりは、自分の内側に頼るものが何もないからこそ、外から差し出される神の恵み(天の国=神の支配・救い)を丸ごと受け取ることができるのです。

     「八福」の残りの七つも、弟子、つまり心の貧しい者たちのとる態度に言及しています。前半で「幸いである」と呼び掛けられるのは、迫害という抑圧の中でじっと忍耐する人々です。3節の「貧しい人々」と5節の「へりくだった人々」は同じヘブライ語に遡り「圧迫を受け、背を曲げた者の姿」を表します。「心の貧しい人々」は直訳すれば「霊において貧しい人々」となります。ギリシア語の「貧しい者」という語は物質的貧困を表しますが、精神的・宗教的意味合いは表すことができません。マタイは「霊において貧しい人々」を述べることによって、旧約聖書で語られる「貧しさ」を表現しようとしています。厳しい迫害のなかで、彼らは悲しみ(4節)、神の前に背を曲げ(3、5節)、神の義を待ち望んでいます(6節)。さまざまな圧迫の中で耐えて、背を曲げ、神への信頼を貫く人に主イエスは「幸いである」と呼びかけられます。これに対し7節から10節では迫害の仲にあっても積極的に生きる姿が語られる。6節「憐れむ」とは迫害者の罪を赦すこと、8節「心の清い」とは迫害者を憎まないこと、9節「平和を造る」とは迫害者との平和を意味します。
    3節から10節で「幸いである」と語られている人物は、主イエスその人だと言えます。イエスはさまざまな迫害を耐え忍び、敵をも愛して平和を実現しようとしました。イエスは信じる人々とともに歩んでいます。主イエスが宣べ伝えた福音の本質は、罪を悔い改めて神との正しい関係を回復することにより、平和を実現する人となります。

    主イエスを信じ、彼の跡を歩む者は彼と共に天の国に入る。天の国では神が彼らを迎え、抱き寄せます。

     11、12節は、10節との関連で、神に従う生活をする者がこの世において受けなければならない迫害について述べ、神はそのような者に報いとして豊かな祝福を与えてくださると語ります。主イエスは、神の支配下にある者には、この世の人々とは異なる価値観が与えられ、迫害をもいとわず、むしろ積極的に喜んで迫害を受けることがでるようになると教えて、聴衆を励ましておられます。

     ここで主がさいわいだと呼んでおられる人々、その人々の生きるところは、貧しさであり、悲しみであり、柔和であり、義の欠乏に苦しむところです。損をしてでも憐れみに生きることであり、汚れの中で清さを保つことであり、争って勝ちたいところで、なお平和に生きるのです。迫害されて生きることです。悪口をあびることです。これらはすべて、世の常識が幸いと呼び、しあわせとするところを、ひっくり返しているのです。

     主イエスがここでさいわいを告げられる時、なぜさいわいなのかを説明なさいます。天国がその人のものとなるからです。慰められるからです。地をうけつぐからです。飽き足りる程になるからです。このように積み重ねられる言葉のひとつの特色は、特に4節以下の翻訳が明らかにみられるように、すべて将来のことです。将来必ずそのようになるとの約束です。そして、それを前後から支えるように、あるいは、すべてを貫くひとつの現実を語るように、「天の国はその人たちのものである」という、今ここにおける事実を告げる言葉が語られます。天国、神の国です。神が支配しておられるということです。今ここに神が生きて支配しておられること、それはどこでわかるのでしょうか。そのしるしを、さまざまなところに見出しうると私たちは思っています。人生のしあわせな経験、魂の感動、そこで、神は生きておられると、思わず賛美の声をあげます。しかしまた、それだけに、神が生きておられるならなどとどうして言えるか、生きておられるとしたら、何と残酷な方であろうかと嘆かざるを得ない悲しい経験も、何度も重ねています。そこで、決定的に神に臨在を告げたもの、神の恵みの支配がはじまっていることを示したもの、それは主イエスの十字架意外の何でしょうか。主が喜んで殺されてくださったこと、死に赴いてくださったこと、そしてこれを神が甦らせてくださったこと以外の何でありましょうか。ここに生きて働き、私たちの心を十字架と復活に向けさせる、霊なる神の働きがあるのです。そしてこの主イエスが、私たちに、あなたがたは必ず慰められる、飽き足りる、神を見ると、断言し、約束してくださっているのです。

     ここに山上の説教の教えに生き、さいわいに生きる持ちが開かれています。今ここですでにそれは開かれ、私たちは生き始めているのです。お祈りをいたします。