カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 完成を目指して

    2026年10月4日
    出エジプト記132:7~14、ヘブライ5:11~6:12
    関 伸子_牧師

     ヘブライ人への手紙は、迫害の危機を背景としている時代の説教集です。「このことについては、話すことがたくさんありますが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません」(5:11)と、「このことについては、話すことがたくさんありますが」と書き始めています。ある注解書は「このこと」を「このかた」と理解した方がよいといいます。いずれも可能なのです。「このこと」という場合には、ここまで語ってきたこと、特に、第5章11節で語られたイエス・キリストが、メルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれることだと思います。また「このかた」というならば、もちろん主イエス・キリストのことです。だから、主イエス・キリストのことについて話そうと思えば、たくさんあるのだが、と読むこともできるし、特に、主イエスの大祭司としての務めについて語ろうとすると、たくさんいいたいことがあるのだが、と読むこともできるということになるのです。

     ところで、そのように言った後で、「あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません」と言うのです。たくさんあることをここで語り始めよう、書き始めようとして、この著者はためらった。そして、ためらった理由をはっきりいうのです。あなたがたの耳が鈍くなっているので聞く説明できるかどうかわからない。そう語っているのです。12節以下を読むと、この手紙を読んでいる人たちの中に、洗礼を受けて、もう何年も教会生活をしている人がいるということです。そういう人たちは、信仰についてすでによく知っているはずだから、人に、そのことを教えることができるはずだ、もうそれができる年月を経ているはずなのに、まだ初歩の段階だというのです。あなたがたは、難しい話に弱いのではないか。ここに、この手紙を書いた説教者の苦衷が表れていると読むこともできます。

     いったい、ここでいう「幼子」とは何でしょう。13節では「義の言葉を味わったことがありません」と記しています。義の言葉が理解できない者は、「幼い」としかいえないのです。14節では「善悪を見分ける感覚を鍛えられた、大人のためのものです」といっています。簡略にいえば、分別のある大人ということでしょう。そのような分別を欠く者は、幼いのです。そして、その分別のある大人になるために大切なこととして、今ここで、イエス・キリストのことについて丁寧に話をしているのだというのです。

     「ですから私たちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の裁きといった教えを今さら学び直すようなことはせず、キリストの教えを今さら学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を後にして、完成を目指して進もうではありませんか」(6:1,2)。これは信仰がいつも初歩にとどまっていることへの勧告です。「完成を目指して進む」という言葉に心惹かれます。信仰を完成するということは、全うするということに通じます。全うするためには、忍耐こそ唯一のものです。ヘブライ人への手紙のテーマはまさに忍耐ということです。聖書の忍耐は希望を持って待ち望むこと、御言葉に従って待ち望むことです。それがわたしたちの信仰生活を全うさせる力であり、完成へと進めるものです。

     4節の「ひとたび光に照らされ」とは、洗礼の事実を指します。洗礼志願者は、3年かけて復活祭に受洗の恵みにあずかった時代です。「キリスト者は造られるのである」(テルトリアヌス)と言われるように、志願者は準備の期間を通して福音的な回心に導かれました。「神のすばらしい言葉と来るべき世の力を味わいながら」(5節)とは、罪からの救いの恵み、イエス・キリストとの福音、天的な世を受け容れたことを述べています。

     しかし、あくまでも自動的のその後の動きが決まっていくわけではありません。人間に意志があり、この世の時間の中で過ごすかぎり、堕落や道から逸れることは起こり得るのです。第6章3節以下に、そうした者たちへの非常に厳しい言葉が伝えられています。

     しかし、それにすぐ続いて、愛に満ちた言葉が語られていきます。この著者は、この手紙を読んでいる人たちを、ただどうしようもない人びとである、と決めつけているのではありません。10節の「聖なる者たち」というのは「聖徒」と訳してもよい言葉です。使徒信条「聖徒の交わり」と述べる、あの聖徒です。教会員です。救われて、神のものになっている人たちです。その教会の仲間たちに、以前も、今も、あなたがたは仕えている、奉仕をしているではないかということです。お互いに、仕え合っているといってもいいでしょう。仕え合うそこに愛が動いている。その愛は、あなたがたの名による愛ではない。神の名によってしている愛の奉仕である。長老として立てられた者も、長老の名において教会に仕えているのではありません。神の名において、教会の皆さんに仕えているのです。そこに愛がすでにあった。その愛を、神は忘れてはおられないということです。
     洗礼は、始まりであり、完成でもあります。この世で一生続く信仰生活のスタート地点ですけれども、これを受けることで、十分主の恵みを踏まえており、完全なものにされた光栄ある立場とつながりを獲得したのです。洗礼の中に秘められている大いなる御業が、その人と共にあることになります。

     ヘブライ人への手紙は、このすばらしい神の光の中で、歩まされている喜びを抱きつつ、自分自身が、進歩している喜びを味わいつつ、わたしたちに語り掛けるのです。わたしたちは傲慢の罪を捨てて、へりくだって、生きたみ言葉を聞きながら、そのみ言葉の証しを受け留めることが求められています。お互いに、支え合う愛の思いをもって、信仰に生きる歩みをしていきたいと思います。祈ります。